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赤い蕎麦花 第5回 作 夢八
「もう、銀一さん来てから10日になったけど、この店はどうだろうか」
譲吉が、事務所で銀一に尋ねた。
「レベルが高いです。特に、蕎麦の仕上がりが、強くて、香りがすぐ立ってきて、
味が濃いですね。延しが綺麗に揃っていて、いつも2.5mm、角も切れてます。
岡田さん、上手いです」
「あんたは、よく見てるな」
「いえ、まだまだ、見えてないことたくさんあると思います」
「でも、銀一さん、2.5mmがいつもいいとは限らん。蕎麦によっては、0.2mmから
0.3mm蕎麦の調子で、厚みを変えたほうがいい」
「蕎麦の調子とはなんですか?」
「捏ねた時の、香りと、硬みかな・・」
「厚みは、そのどちら調整するんですか?」
「しいて言うと、香りかな、香りが浅い時は、厚みで味のほうを取ったほうがいい」
「その時は、つゆどうしましょう?」
「気持ちのいい質問やな。この何年、誰もそんな質問せんな。
店、譲りたくなった」譲吉とすれば、本音だろう。それでなくても、靖男の心理状態と、
美咲との夫婦仲の心配で頭が痛いのだ。
「つゆの前にだしのとり方やね。みんな勘違いしとる。
岡田のだしのとり方、一度見てなさい、あれは、研究熱心やから、参考になる」
先日から、岡田のだしの取り方を、銀一も見ていたのだ。なるほど、と思う事があった。
だしの煮出し時間もまちまちなのだが、コクを見ているのだろうか、
かなり頻繁に舌で確認をしている。
これまで、銀一の修業してきた店よりもかなり煮出し時間は長い。
枯れ節の厚削り一本だ。亀節や、よけいな物を入れていない。
「いい節に勝るものは無い。いい物をしっかり煮出せば、いいわな。
たくさん入れればコクや厚みが出ると思うのは、錯覚だな」
なるほど、そんなものかなと、銀一は思った。だが、いくつかの
疑問もあったが・・。そんなシンプルな取り方で、甘みも深みも出るのか?
しかし、この店のつゆにはその疑問の答えもあった。
「靖男さん、悩んでおられますね」銀一が話題を変えた。余り、技術を盗まないうちに、
質問ばかりでは、能がないだろう、と思った
「あの悩みは、誰も救えない。自分で蕎麦を打って、治すしかないかな」
「小さな支店でも出せば直るのではないですか?」
「それは、違うな。うちの支店を出すとしたら、この店よりも
一段質の高い店を作らないと、この本店の名前に負けてしまう。
銀一さん、そう思いませんか?」
「そうですね」
「高見庵の親父さんもそれで、あんたを修業に出してるんだろうと、思うが。
それは、言わないでも、あんたは、わかってるだろうが」
「靖男さん、袋小路に入ってる、気がします」
「まだ、30歳前だよ。自分で修業にでも行きたいと、言ってくれば見込みがあるのだが。
俺は、35歳で修業に出た。女房、子供を置いて」
「靖男さんには、それは酷かもしれませんね」
「難しいな、男の選択は、今、あるものを捨てなきゃいけないときもあるし。
今のままだと、岡田が追い抜く。あれも、もう暖簾分けしてやらないと
いけない時期だし」
これ以上の質問は、踏み込みすぎると、思った。岡田と妹の貴美との事に、興味が
あって、譲吉がどう考えているのか知りたかったが。
「銀一さんも、段々うちのこと、解ってきただろうと思うが、後は貴美がどう考えるか
それ次第だな。でも、いいお婿さんが来てくれんことには・・
ところで、貴美と会ったかな、銀一さんは」
「ええ、お顔だけは・・、ご姉妹皆さん、美人なので驚きました」
「休みの日でも、貴美に群馬を案内させよう。明日の休みはどうなんだ?」
「明日は長野に行って、こちらの蕎麦畑を見て、管理されている方にお話をうかがいたいと。
その後もう一日、お休みいただいて、長野の蕎麦屋さん回りたいのですが」
「だったら、1,2店紹介しておこう。貴美とは、その後だな、予定しておいてな。
明日はうちの連中も勝手気ままなようだし。
美咲も、また同級生たちと2日ほど、東北の方に行くといってたな。
相変わらず、夫婦別々のようだし、困ったもんだ」
どうも、譲吉は、貴美と銀一とを、仲良くさせたいようだ
しかし、それよりも、美咲との事だった。
あの日、最終的にはバー、ガイアで、美咲と、休みの日に、長野で会う約束をしたのだ。
ガイアの裏手は、ホテル街であった。二人ともどちらかが言い出せばそのまま入って
いただろう。だが、そのままの勢いで、ガイアから、裏のホテル街の一室で、
抱き合う勇気はなかった。美咲も人目をはばかれたし、銀一も思いとどまった。
長野の約束も銀一には
踏み越えていく時間が欲しかった。もしかして、目が覚めてしまえば、酒の酔いの
事と、忘れてしまえるのではないか。美咲からも断りの連絡があるのではないか、とも
思った。しかし、あの湯沢の、美樹の肌を思うと、思い止まるには、誘惑的過ぎた。
美咲からも止めたいとの連絡がない。このまま行くしかない、そう銀一は、思った。
蕎麦畑に、赤い花が咲いている。長野箕輪町、別名が「赤そばの里」と呼ばれている。
国産のそばの花は、普通白いのだが、これはヒマラヤを原産とする蕎麦畑である。
柔らかな高原の光を浴びて、ややピンクに近いその赤い花が一面に咲き誇っている。
美咲の細い指が、銀一の指に絡んでいた。
「初めて、蕎麦の赤い花を見たわ」声が濡れていた。
銀一も初めて見る赤い蕎麦花であった。美咲の冷たい指先から、赤い炎が、銀一の体に
伝わってきて、胸の奥にその赤い花が咲いた。
美咲は、長野駅まで、レンタカーで銀一を迎えに来てくれていたのだ。もう、美咲は
湯沢の美樹に戻っていた。声も、態度も、銀一を見る目も、あの日に戻っていた。
お互いの肌を知り合っている同士が感じている空気が、明らかにそこにあった。
その濃密な空気が、すぐに二人の体を密着させてしまいそうだ。
「東北に行ったことになっているんでしょう?」
「学生時代の友達、3人とね」
「大丈夫なの?写真は?・・」
「魔法を使うから、心配しないで」
美樹の紅潮した左の横顔を見た。左頬の中心に銀一の心を迷わせたほくろがあった。
やはり、美咲と、美樹は入れ替わっていた。美咲の頬には、ほくろは無い。
「私、本当に好きになったみたい」
美樹が、銀一の目を見た。美樹の体から、男物のブルガリが香る。
「群馬ではなくて、長野で会えたね」
銀一が、美樹の目を覗き込んだ。
美咲も多分、東北に行ってないのだろう。かなり、入り組んだ展開になってきていた。
第5回終わり
次回は、一週間後の予定。なお、この小説は作者のフィクションであり、登場人物、店舗、
団体も架空のものです。
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