赤い蕎麦花 第3回 作 夢八
玄屋は、職人が一人に、見習いが3人いる。蕎麦を打つのはその職人、岡田と、一番見習い
が受け持っている。岡田は、朝、4キロのそば粉を、1時間程度で一度に打つ。
これは、40人前に相当する量である。
普通、蕎麦は、2キロくらいが一番延しもうまく行くので、それを2回打つのが
一般的だが、岡田は、群馬でも蕎麦打ち上手で通っていたから、4キロは軽く打つ。
その後で、田舎蕎麦を1.5キロ打って、彼の蕎麦の仕事は終わる。
もちろん、玄屋ではこれでも足りないので、一番見習いが、その後、
2.5キロ打って、これがお昼の分になるのだ。観光シーズンはもちろん
これでは足りないのでお昼の様子で、2,3キロ追い打ちする。
靖男は、この一年腕の故障で、蕎麦を打っていない。黙々と、見習いと、薬味などの
仕込み、つゆの仕込をしているが、つゆの仕上げは、譲吉がする。
事務所に、つゆの仕込を終えて譲吉が入って来た。
紙袋が、5個机の上に置いてある。事務所には銀一と譲吉だけがいた。
「銀一さん、毎年今頃になると、頭痛いわ」
譲吉は、紙を一枚敷いて、その紙袋から、蕎麦の粒を均等に並べた。紙袋には、産地と、
契約農家の名前が書かれてある。
「もう、長い間、やってると、蕎麦の出来が、この粒を見るだけでわかるようになってね」
「譲吉さんのところで、蕎麦畑お持ちでですよね?」
「イヤー、間に合わない時もあるし、それに、毎年いい蕎麦になるとも限らないし、
出来が悪い年もあるからね。色々な農家と契約して、
選別してブレンドするのさ」
「そうですか、うちの親父も、この時期になると、蕎麦農家あちこちまわってました。今は
ある人に仕切ってもらって、楽になってますけど」
「今年は、北海道が悪いな。急に需要が増した年は、蕎麦畑拡大したりして、よく育たない
年があるから、今年はそんな年かな。場所にもよるけど」
「うちの婿さんも、ああやって遊んでないで、こんな時に、蕎麦の産地色々回ればよいのに、
勉強になるのにな」
靖男が玄屋に不満があるように、譲吉も靖男に不満があるのだ。まして、蕎麦が打てない
婿への物足りなさは、想像ができた。
「それが支店を出したいといっても、無理があるさ。蕎麦は、自分が打って、自分が茹でて、
客の顔を見ながらやんないと、客も逃げるさ。岡田に打たせてはいるけど、いつまでもナ。
美咲が、やに、なるのもわかるさ」
「お二人ともそんな感じはしなかったけど」
「美咲とは?」
「3日前の、歓迎会の時、後から合流されて、一緒に」
「美咲も苦労だわさ、ま、つい、愚痴が出てしもうた」
「もう、腕も良くなられるんじゃないですか」
「心の病さ、あれは。腕が痛いのは本人しかわからん。高見庵さんも偉いな。
あんたみたいな息子を、修業に出して。うちで5店目か、あと5店だね。
人の飯を食べるのは大変やもんナ。俺も若い時
2店修行に入った。きつかったな当時は」
譲吉が修業に出たのは、30代半ばだという。当時、もうすでに子供もいて、出前も出す
饂飩屋であった先代のあとを継ぐ時、短い期間ではあったが、4年東京で
修業して帰って来たのだ。
「4人も女ばかり産んで、死んでしまって。これから、いい目に会うばっかりだというのに」
「それでは、大変だっただったしょう。でも、娘さんは、3人だとお聞きしてますが」
「美咲は、双子でな、兄のところがまるっきり、子供がいなくて、生まれてすぐに
養子にやったのさ」
「おっ、今日は早いな。何かあるのか?」
美咲が、事務所に入ってきた。
「来月の金砂郷の出張分と、仕入れ代、前もって計算しとこうと思って」
美咲がデスクに、座ると、譲吉が、店内に向かった。
「今日、銀一さん夜、空いてますか?」
美咲が、台帳を見ながら、訊ねる。
「今日は、8時には引くようにしてますが」
「銀一さん、この間すごく気になること言ってたから・・」銀一の目を見た。
あの日、2件目にバーに3人で行ったのだ。靖男は、酒に弱いのだろう、それとも、妻の
美咲が来て安心したのか、すぐに寝てしまい。カウンターから、テーブル席に移して、
カウンターに銀一と美咲だけになった。
横に並ぶ美咲は、美樹そのものに思えた。胸の厚み、細いウエスト、最初美樹に会った
そのままの女がいた。
「銀一さん、私、顔が赤くなるわ、そんなに見られると」美咲が、左手で顔を隠して俯く。
先程から、気が付かなかったが、美咲の顔をしばらく見ていたようだ。
「美咲さん、僕と会ったことあるでしょう?」振り向いた大きな目が光った。
「えっ、私は初めてなような気がするけど・・」
「そうですか、すごく残念だけど・・。すごく似た人を知っています」
銀一は、がっかりして肩を落とした。その様子が、美咲にはおかしかったようだ。
「あら、そんなに似た人がいるんだ。その人は、銀一さんのいい人かしら」
「恋に落ちたんです。美しい大人の人でした」
真面目に銀一が呟く。美咲も銀一の真剣さに少し驚いた。
「いいわね・・そんなに思われて」グラスを、回すしぐさも同じだった。
「でも消えたんです。逃げられたのかな」
この人は嘘をついていると、感じたが、人妻を責めるわけにもいかなかった。
「銀一さんだったら、私、逃げないな」
銀一が美咲の目を見た。美咲も目が逃げていなかった。
「その人が、美咲さんだったら、いいなと思ったんだけど」
「すごく、ストレートなのね、銀一さん」美咲が呟いた。
その時、靖男が起きた。そのまま、帰ったのだが、もし人違いだったら
あの会話は、銀一が、美咲を口説いたことになるのでは、と気になっていた。
だが、もう美樹と美咲が、同じ女かどうか、わからなくなっていた。
その日は,その事を考えないようにして、二人を置いて、先に帰ったのだ。
「今日は私早く出れるから、この間のバーの斜め向かいの路地の突き当たりに
千鳥というスナックがあるから待っていて、9時過ぎには行ける」
もう銀一がどう答えようが、そうしたいという、ことなのだ。
面倒なことにならないだろうか?
だが、銀一は、湯沢の美樹に会いたいと思っていた。
第3回終わり
次回は、一週間後の予定。なお、この小説は作者のフィクションであり、登場人物、店舗、
団体も架空のものです。
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