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蕎麦ミステリー街道4 天下蕎麦 最終回 作 夢八
茜の2階に、藍と恵の親子と銀一がいた。3人で会うのは初めてだった。
「銀一さん、私も、ママも東京には、行かないことに決めたの」
恵は、銀一の目を見つめて、はっきりとした口調で言った。
「恵は、私が行かないと決めたら、残ると言ってくれて・・本当は、東京に行きたいだろう
に。辛いことをさせて」
銀一は、家族一緒に福井を出れば、藍もこれまでのことを捨て、また違う道を歩めるの
ではないかと思った。しかし、銀一が、考えるほど単純なものではないようだ。
銀一は、もし恵が、東京にいれば、いつでも会えると、それも漠然と考えてはいたが、
恵にすれば、銀一とのことに確信を持てないのだろう。
「僕も明日、旅に出ます。健吉さんの紹介で、群馬のお蕎麦屋さんです。
もう、蕎麦の白い花が咲いているでしょう」
「銀一さんは、いつ修業が終わるんでしょう。恵は余り男の人に物を言えない
から・・。そんなところばかり、私に似て」
藍が健吉を待っていたように、恵も自分を待つのだろうか。銀一の胃が痛くなった。
「いいのお母さん、銀一さんに負担を掛けたくないの、何も言わないで」
「もし、蕎麦修業が終わって、お店を出せる見込みがたったら、皆さんに会いに
もう一度福井に来てみます。
それまで何の約束もできません」銀一が、恵を見て言った。
「ありがとう。銀一さん」
この旅で、銀一は、様々な男と女を見てきた。何年も、人知れず糸のように絡み
あっていた恋情があった。裏切りも見た。火のような確執もあった。
男と女の事は、明日何が起こるかわからないのだ。
二人でいても辛いし、別れても苦しいだろう。
明日出発する銀一のため、藍は、店を休業にして、二人で過ごせるようにしてくれたが、
それは、二人の辛さが増すばかりになるかもしれなかった。
銀一は、夕方、健吉に明日の旅立ちの挨拶にきていた。次に入るところは、
健吉の兄弟のような間柄で、群馬では、名店のひとつに数えられていた。蕎麦畑を持って
いない頃、そこから玄蕎麦を分けてもらっていたのだ。
「うちでは修業にもならず、かえってお世話を掛けてしまったね」
「いえ、蕎麦の製粉所など何回も見せていただいたし、銀一さんには、ビジネスの基本を
教えていただきました」
「せめて、光男の開店の目星がつくまで、いて欲しかったんだが」
「そんなに長くお世話になると、離れづらくなりますから」
「まだ、あまり話はしてないんだが・・」
健吉は、いつものバーボンを、なめた。今日は、夕刻に近いのに、珍しい。
銀一にも、ロックを作ってくれた。
「芳江と別れることにした」
銀一が、グラスを落としそうになった。
「長い間、なかなか、結論が出せなかった」
健吉と、芳江は、恵が生まれてから、同居はしていたものの、夫婦生活は無かったのだ
と言う。芳江も女の意地だけで、自分の腹を痛めた、二人の息子を一人前にすることだけに
情熱を注いできたのだ。
「お店のほうは、どうされるんですか?」
「みんなうまく行くように話をした。支店は、それぞれ分割する。本店の社長は、孝之。陣には
株を持たせる。芳江は、本店専務。せめてもの償いだ。
俺は引退して、本店のそば教室担当専任。あとは配当だけ貰う。光男の株は、
孝之、陣に買い取って貰って六本木の資金にするようにした」
「もうひとつの家は・・」
「ほんの1時間前、藍に電話だけして、一緒になってくれ、そう言った」
照れくさそうに、健吉が笑う。愛してる女と一緒になるのは、
男をこんなにもいい顔にするものか、と銀一は思った。
「今日のバーボンはうまいですね」銀一が乾杯のグラスを上げる。
「何十年も待たせてしまった。本当に長かっただろう、と思う。
こんな男は、銀一さん駄目かな。男として、駄目なんだろうな・・」
指で、グラスの中の氷をつつく。
「そんなこと無いと思います。僕だったら、そんなにあっさり捨て切れません。
恵さん、喜ぶと思います。これで本当の娘ですね」
「恵は、あんな境遇で、ぐれもせず、素直に育ってくれた。本当なら、私の事を恨んでもいい
はずなのに」
健吉は、銀一と恵みのことには、解っていて触れようとはしない。
銀一には、藍と、恵みが重なってしまう。同じことを、自分が恵みにしているのでは
ないかと、自問してしまう。
「いい親子ができましたね」それが精一杯の銀一の言葉だ。
「みんなあんたのおかげだよ。あんたが来なければ、こんな決心はつかなかった」
重い荷物を降ろし終えた男のように,力が抜けていた。
銀一は、また機会があれば、福井に来る旨を告げて、越前家を後にした。
夕方なので、店は客でごった返していた。一代で築き上げた城を息子達に分配して
昔愛した女のところに帰るのだ。自分に正直に生きることは、辛い選択をすることだと
思った。ただ、別れる妻の芳江の心根をだれが慰めるのだろうか。健吉は
東京に旗を立てる夢を、それぞれの息子達に託した。光男が天下を取れる素材かどうか、
試されるのはこれからだった。
福井に入るときの歴史本を思い出していた。天から舞い降りたという竜の再来は、健吉に
とっては、光男だったのだ。
次は自分のことだった。これまでに一番愛した女と、明日は離れるのだ。
銀一は、恵のもとに急いだ。
群馬までは、福井から一旦新潟方面を経由して、そこから、前橋に上る。
恵と福井駅にいた。駅に着いた頃から二人とも寡黙になっていた。
昨日、二人ともほとんど一睡もせず愛し合った。別れる苦しさを、埋め尽くすには、余りにも
短い時間のように思えた。恵から、愛しているという言葉を限りなく聞いた気がした。
電車は時刻通り入ってきた。
「これ、お母さんが持って行きなさいって」
電車に乗る時に、恵が袋を渡した。デッキから、小さくなって行く恵を見ていた。
越前家の人たちの顔が空虚な頭の中を駆け巡っていた。もう終わったことな
のだろうか・・。健吉の決心で、総てが解決したのだろうか。答えが見つからなかった。
恵から貰った袋を開けた。
バーボンが入っていた。茜の棚に一列に並んでいたフォアローゼスだ。
長い間、健吉の帰りを待ち続けた、藍のお守りだ。
男がプロポーズして、
女が薔薇の目印でその愛に応えた、物語の酒、フォアローゼス、愛を待つ酒だ。
恵からの無言のメーセージだった。
銀一は、旅で色々なものを得たが、重いものもひとつ背負った。
座席の中で、睡魔に襲われて、朦朧と埋もれて行く自分を感じていた。
天下蕎麦 完
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