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蕎麦ミステリー街道(3) 女の恋蕎麦 第6回
作 夢八
銀一は、栃木に急いだ。彦辰から、卓に電話をしてもらって
いたから、卓はすぐに銀一を迎えた。会うのは、店の閉めた後の指定があった。
もう、妻の初美は店を離れていた。
銀一は、この10日程のいきさつをすべて、卓に話したのだ。
「娘の由紀さんも、来年は大学受験です。由紀さんの幸せだけを考えて、皆さん
大変な思いをされてきたようです。もう父親として、会われたらどうでしょう」
「若い頃に彼女を捨てたことが、すべて今になって返ってきたんです。彼女が子供を中絶する
のを確認すれば・・だけど彼女の性格からすれば、そんなことをしないのは僕は、わかって
いたような気がする。どんなに反対されても、何とかやっていける道をさがせばよかった。
逃げたんです、僕が」卓は、激情の余り、声を上げて涙を流した。
何十年もの溜まったものが、噴出してきたようだった。
人間は、こんなにも激しく泣けるものか、男の嗚咽を、銀一は初めて見て驚いた。
涙が収まるまで、銀一は静かに待っていた。
「すいません、みっともないですね」
「もう、昔のことで、あまり・・」
「自分だけよければいいなんて、・・どれだけ恥ずかしいことしてきたのか・・。
銀一さんにも、ご迷惑をかけてしまって。
父が、輪島に栄子親子を迎えると言った時も、私には何も言えませんでした。
娘にも会いたくて・・でも会いにいけませんでした」
「皆さん、ご自分が悪いと責めてられます・・・。
もう、これからは、どうしたら、うまく行くのかは、卓さん次第なんです。
このままだと、栄子さん達も、出て行かれるでしょう。能登屋さんの苦労が水の泡です。
それに、言いにくいことですが、見たところ、この店も難しいのでは・・」
銀一は、能登屋の彦辰と相談したことを、卓に告げた。
輪島に帰って、能登屋の家から独立して、新宅を構える。
親族に対する分家宣言である。
手打ち蕎麦の居抜き物件を買い取って、出直しの開店をする。そうすれば、
能登屋の相続人は、本家の栄子さん、娘の由紀さんになる。また、分家の卓さん夫婦にも、
権利が残る。
後は、由紀さんが、婿を取って、
能登屋を継いでもよいし、将来の事は、また相談しながらでもやっていけばよい。
しかし、親族に、栄子さんの件はこのまま伏せておく。
どこで線を引くか、ぎりぎりの見極めをしてくださいと言葉を添えた。
「しかし、家内にはこの件は・・」卓には、まだ辛い告白が待っていた。
「もう、思い切って、奥さんに言って下さい。これからも二人で、蕎麦を打てば、
何があっても負けないでしょう。この店のことも、よく相談してください。
このままやっていけるのか、新しく出直したほうがいいのか、もしやり直されるのなら
私もお手伝いします。
その上で、早く結論を出してください」
「銀一さん、ありがとう・・。僕もどうしようかと、・・」
物件を探していて、この辺りでは破格の家賃で、蕎麦屋の設備、備品込みで200万の居抜き
だったので、多少不便でも大丈夫だろうと、この場所を選んだ。
開店の1月くらいは、それでも客が入ったと言う。後は、二人で溜息のつく毎日が続いた。
居抜きで安かったとはいえ、改装や、食器、看板類などで、その他に600万は
出費があった。
あと1月、あと1月。ずるずると日が過ぎた。もう、退職金も消えて、毎日の粉を回していく
お金にも不自由していた。
「準備が足りなかったんです。周りに強い相手がいます。
輪島には手打ち蕎麦屋が少ないです。そこで、新しい蕎麦屋を作ってやり直ししましょう。
彦辰さんが、資金はなんとでもする、
親のすねを、もう一度齧ってくれと、言っておられました」
しばらく、沈黙があったが、卓も気持ちが、動いてきたようだ。
「それと、栄子さんは、まだ卓さんに、気持ちがあるようです。栄子さんが、隣の
蕎麦屋さんに来たことは、わかっていたんでしょう」
「あの時は、まさか、と思いました。早く、娘の顔を見に来い、ということなのか、
栄子の性格からすると、もっと違うことを言ってるのかもしれないと、とても悩みました」
「栄子さんのことは、必ず卓さんの中で、解決しておいてください。これは、大事なことです」
銀一は、この二人の関係だけが心配だった。
物事が少しずつ動き出した。大切なことは、みんなが、
過去のいきさつを知ることだった。その中でバランスの取れた
関係を保って行くこと、だった。しかし、このバランスは、何かで壊れるかもしれなかったが、
少なくとも、皆が、理解しているから、またなんとか作り直せるだろう。
娘の由紀にも栄子の口から、この件のすべてが伝えられた。あまりの意外な告白に、暫くは、
泣くばかりだったと言う。
ただ、彦辰と母親は、少しも夫婦らしいところが無かったので、何か理由があると、思っていた
と言う。若い由紀の前に、生身の人間の奇異な関係が交錯しながら、動き出していた。
9月7日、輪島の市役所から、少し奥まったところに、手打ち蕎麦屋が開店した。屋号は、銀の字。
閉店した蕎麦屋のあとに、卓たちが新規に開店したのだ。
厨房には、卓夫婦がいた。横に銀一がいた。今日は、銀一は、インストラクター
の役割だった。側には、栄子の娘の由紀が忙しそうに、開店前の準備をしている。
この三週間ほど、銀一と一緒に、料理の素材選びや、メニュー作りの手伝いなどをしていた。
傍から見ると、若夫婦のようにも見えた。
表通りには2種の幟があった。1本は能登浜そば、もう1本は、めおと(夫婦)蕎麦と、
書かれている。浜風に乗って、勢いよくはためいて、客を呼び込む。
開店初日、銀一が作り上げた、ホームページを、前もって輪島観光案内にリンクしたせいもあって、
上々のスタートを切った。能登屋の知己、関係者、贔屓筋も列を成した。
夫婦二人の打った夫婦そばも人気があった。銀一が、
アドバイスした能登浜そばは、おろし蕎麦をアレンジして、輪島の魚貝と海草をたっぷり
盛った。蕎麦はつなぎに、ふのりと卵を練りこんだ。新潟のへぎ蕎麦からヒントを得た
ものだ。こしが強く、つるつるの滑らかな蕎麦で、魚貝や、つゆの味に負けない美味しさが出た。
これは、1時には完売してしまった。
卓夫妻は、屋号を、銀一から一文字貰って、銀の字とした。
銀一の店ができる前に、分店が、輪島にできた。
妻の初美も卓の過去を一緒に背負って銀の字で、共に蕎麦を打たねばならないのだ。
卓からは、この頃、妻の初美が、栄子や、娘の由紀と3人でよく会っていると報告があった。
「女は強いね。銀一さん」ポツリと、卓が呟いた。
この頃は、女達が平然と前に進んでいることで、引きずられるように動いていた。
「初美さん、大事にしてあげてください。嵐の中で一人で歩いてるようなものでしよう」
考えてみれば、妻の初美が、一番辛い立場だった。
卓から必死に蕎麦打ちを習って、開業して、思いもかけぬ卓の過去である。別れたとはいえ、
かっての卓の恋人だった女と身近に暮らして行かなければならないのである。
救いは、卓の子供がいて自分等の子のように側にいることだ。そのことも、納得するには時間も
かかるだろう。
今は、卓の背中を見て、後をついて行くだけなのだ。
不思議な関係をみんな背負っていた。
1日目が終りかけていた。銀一は、一足早く、常宿に帰ることにした。
玄関を出たところに、卓が追いかけてきた。
「銀一さん、ホントに恩にきるよ」深々と、頭をたれた。
ゆっくりと、銀一の目を見た。
「久しぶりに栄子に会った時は、胸が震えました」
「そうですか・・」銀一は、何も言えなかった。
「今は、兄弟だと思うことにしています」
「そうしてください・・」銀一が、その肩に触れた。
店を離れてから銀一は振り返った。夫婦そばの幟に当たっていた明かりが消えた。
まだ、銀一の不安は、消えてはいなかった。
第6回終わり
最終回は、一週間後の予定。なお、この小説は作者のフィクションであり、登場人物、店舗、
団体も架空のものです。
2005.10.15
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