「高校時代に、栄子さん、吹奏楽クラブに入ってたんですね」銀一が訊ねた。栃木から帰って
来て、2日後である。
ここは、能登島から、少し離れた猿島という無人島である。能登半島には、いたるところに
無人島があり、中でも、七つ島無人島ツアーなるものまであって、人気を呼んでいた。
「高校時代、この島で、合宿したんです。夏休みの間だけ、青年団の人たちが、即席の
バンガローを作って、泊まれるようにしてくれたんです。
仲の良いクラブの人ばっかりと、たった3日間の合宿でしたけど・・・。」
栄子の一瞬の青春が、水平線の彼方から、蘇って来ていた。
「僕にも同じような思い出があります。
僕は、体育会系のクラブでしたけど」
「両親を二人とも亡くしていて、親戚にご厄介をかけていたんです。高校を卒業したら、
金沢に働きに出ることが決まっていました。部活だけが生きがいでした」
縁の薄い親戚で、アルバイトをしながら、高校まで出させてもらったという。銀一にはその
境遇が想像すらできなかった。何度も、男から、悪戯されそうになったこともあったそうだ。
「吹奏楽の2年先輩で、能登屋の卓さんがいた。同じクラリネットでしたね」
銀一が、卓の同級生から、取材したことを、聞いた。
「私が卓さんの家に新聞を配達に行くと、毎朝必ず起きて待っていてくれたんです。
雨の日も、雪の日も、手渡しするんです。嬉しかった・・・。あの頃アルバイトが恥ずかしくて、
でも、卓さんが、励ましてくれたんです。
卓さんとのことは、もう、ご存知なのですか?」
時々、漁師に頼んで人が渡ってくるのだろう。粗末ながら、4人ほど腰掛けて休める
テーブルと椅子があった。そこに、二人は腰を下ろしていた。
「栄子さんと、卓さんが、お付き合いがあったことまでは、わかりましたが・・」
「なぜ、そのお父さんと、一緒になったのかは、わからないでしょうね」
今日の穏やかな波のように、二人は静かに対峙していた。
「能登屋さんから、卓さんの蕎麦屋を見てくるよう頼まれたのですが、栄子さんのことは、
どう対処していいか本当に悩んでいます。
僕が、どこまで入り込んでいいものか?荷の重過ぎる事が、一杯出てきました」
銀一の知らないことが、たくさん隠されていると思っていた。
もう、栄子はそれを聞かせてくれるのではないか、でないと、栃木に行ったこともみんな
無駄に終わりそうだった。
「能登屋は、娘の恩人なんです」
和服に合わせて、髪はきれいに掬い上げて結ってあった。
肩から胸の膨らみに色香が揺らぐ。きれいな輪郭と奥行きのある美人顔である。
小さな黒布の日除け傘から、刺繍を通して光が漏れて、化粧の粒子に留まっては、消える。
扇子の風は銀一に向けられている。風に薔薇のような芳香があった。
30代にしか見えない。まっすぐ見つめられると、銀一は顔が紅潮した。
「僕は、市役所に行って、卓さんの同級生の方にお願いして、戸籍を見てもらいました。
あなたは養子なんですね」
「・・・・・・」
能登島に渡る2キロ余りもある橋が、この小さな孤島の上を走っている。栄子が、金沢に行って
いる間に近辺が変ってしまっていた。周囲72キロに及ぶ島に、レジャー施設、文化施設が
散在し、能登半島屈指のレジャーランドになっていた。
猿島も、今では、無人島のまま放置されている。銀一から
どこか静かなところと指定され、知り合いの漁師に頼んで船を出してもらったのだ。
「能登屋にきてから、本当に穏やかで、幸せな日でした。こんな幸せでいいのか、
いつか壊れるのではないかと、疑っていました」
卓との思い出の場所を選んで、
栄子は、過去のすべてを銀一に話そうとしていた。
輪島は旧盆を迎えていた。お盆時期の観光客の相手や、輪島大祭の準備で、能登屋の彦辰も目の
回る忙しさだった。輪島の祭りには、キリコと呼ばれる御輿があって、切子燈籠の略で、設えの
仕上げは輪島塗である。祭りの夜の切子燈籠に浮かぶ文字と明かりは、幻想的で美しく、
毎年、多くの観光客を集めていた。
「いかがでしたでしょうか?」彦辰と銀一は能登屋の奥座敷にいた。
「立派な蕎麦を打たれておられました」今日は、彦辰自ら、茶を点てる。抹茶椀は、萩である。
白色の釉薬が、使い込まれて、独特の淡白食に変化している。
「そうですか、卓はやっていけますでしょうか」
「商売としては苦しいかもしれません。
栃木は蕎麦の激戦地で、流行店や、名店が多くて、このままだと大変だと思います」
銀一の素直な意見を言った。正座になって、茶菓子を頂く。
「蕎麦の世界で、それなりになれますか?」銀一の前に萩が置かれた。
「いい蕎麦職人になれると思います。奥さんもよい蕎麦を打たれます」
「それじゃ、二人で?」彦辰が、驚いた。
作法どおりに、茶を含みきった。しばらく、間があった。
「めおと蕎麦です。・・奥さんは多分卓さんから、習われたのでしょう。女の方の蕎麦打ちは、
それは大変な努力だったと思います。僕の経験からもわかります」
銀一は、彦辰の目を直視した。
「それを壊したら、・・本当の鬼になるわね」ふっと、息が抜けた。
「白か、黒かを選ぶのもいいですが、その間を選ぶのもありますね」
銀一が、足を崩して座り直した。
「その間とは、どんな?」
「栄子さんが、考えておられたようです」
「栄子が?」
「能登屋さん、あなたと栄子さんは、戸籍上は親子なんですね、栄子さんはあなたのことを
娘の恩人だと、言われてました」
「栄子から、話を聞きましたか」深い溜息が流れた。
「皆、間違いを犯してしまいました。聞かれた通り、栄子の娘の由紀は、卓の子供です」
意を決したように、彦辰が、しゃべり始めた。
元々、高校時代から、恋仲だった卓と、栄子は、卓の大学卒業間際、二人で結婚の許しを
得に来たのだ。
「家の格式が違うと、許さなかった。子供を始末しなさいと、無理やり別れさしてしまったのです。
本当に馬鹿な親でした」茶袋を絞める指が震えていた。
「しかし、栄子さんは、子供を出産していた」
「1年ほどして、知り合いの者からその話を聞き、会いに行きました。
栄子は、親も無く、親戚の縁もうすかったのです。手切れ金も底をついていました。
本当に、ひどい生活をしていました。風呂も無い、小さな学生下宿のようなアパートでした。
孫の顔を見て、泣きました。笑うと、小さい頃の卓の面影があるんです。
この娘を立派に育てなければ罰が当たると思いました。
卓にも黙って、できるだけの援助はしてきました。
卓も当時は、結婚を許さなかったので、私らを恨んで、ずっと絶縁状態でした。
栄養士の学校に通わせて試験も受かり、料理屋に勤めて5年。お店を出すお金も用意して、
小料理屋を出させました。栄子は、何回も断りましたが、親子共々の罪滅ぼしでした。
娘は由紀、その名前も、私の妻の雪乃からとってたんです。会うたびに可愛くなって、
それはもう孫とはこんな愛しいものかと思いました。
死んだ女房にも女ができたと疑われて、連れて行きました。
雪乃にとっても、たった一人の孫でした。因果だと二人で泣きました」
料理屋を出した頃の7,8年ほどは順調だったと言う。しかし、素人商売狂いだすと、あっという
間に沈んで借金が嵩みだした。思い切って、手元に置いておけば、と決心したのだ。近隣には、
再婚をすると、偽って、家に呼んだ。反対は、承知の上だったという。
「親戚の者にもほとんど知らせなかったし、戸籍上養子にしておけば、あとから何とでもなる
だろうし、栄子も来やすいだろうと思いました。ずいぶん泣かれました。
卓の手前それはできないと。しかし、
娘のことを考えて、最後は折れました。せめて娘が嫁に行くまで家に入っていてくれと、
騙すように連れてきたんです。小料理屋なんか出させて、借金を背負わせたのは、
私なんですから」
卓は、それを聞いて驚いたが、自分も、別れたままにした薄情さに涙を流すだけだったと言う。
まして、今の結婚生活に子供もいなく、娘に会ってみたいと思う気持ちも抑えきれなかった。
「栄子は、いまだに卓のことを思ってるんですな。人の気持ちはなかなか難しい」
「それが今回の件を複雑にしてしまいました」
「私がいけなかった。もし、卓があとを継いでくれることになれば、栄子とは離縁する形にして
何とか、食べていけるようなお金を持たせて、この家から出て行けるようにしたかった。
私も年をとった・・。能登屋の行く末が急に心配になってしまってね」
「言いにくいのですが、ひとつ嘘がありますね。能登屋さんは、卓さんご夫婦の離婚を、
考えておられたのではないですか?できるなら栄子さんと・・」
「・・・・・」長い沈黙があった。
「申し訳ない」深々と頭を下げた。
「卓の嫁には申し訳ないが、卓と栄子が一緒になれないか、それを、考えました。
色んな事を考えると、悪い方、悪い方に流れてしまうんだね・・」
「そんな気持ちは栄子さんにも敏感に伝わっていたんですね・・。しかし、
卓さんには奥さんがいる。栄子さんの心は、どんなに乱れたか・・」
「また、栄子を苦しめただけだったのか」
「もう、その話はやめにしましょう。栄子さんは、もう吹っ切れたと
言われています」
彦辰が能登屋の相続に悩みだしていた頃、
栄子はそれを敏感に感じ取って、自分から、出て行こうとした。
娘の由紀がもう卒業だから、能登屋を出て、職を探すか、お店でも始めようか、
そう考えていたのだ。
ただ、もしかして彦辰は、卓と自分との結婚を望んでいるのではないかとも、感じていた。
同時に、昔愛した男が気になって、わざわざ栃木まで、出かけて行って、
店を確かめたのだ。近くの店に、能登屋の花押が入った、薬味入れを置いて、卓が
見てくれることを願った。
このあたりの心理は、銀一には想像が及ばない。
卓がまだ愛していたら、何もかも捨てて帰って来てくれるかもしれない、そう思ったと言う。
輪島で一緒に、蕎麦屋ができるかもしれない、錯綜した心が、幻想を呼んだのだろう。
ただ、ここまで一人の男に思いを持ち続けられるものなのか。
「どう解決したらいいのでしょう?」彦辰の頭は混乱していた。もうどんな動き方をすれば
良いのかわからなかった。この家に栄子を呼んだのも間違っていたのかもしれない。
しかし、後戻りもできなかった。良かれと思ってしてきたことが、裏目に出たのではないか。
「私に考えがあるのですが」
「皆がいいように行けば、ありがたいが・・」
「明日、栃木に行きます」
もう、卓に、総て話するしかない。それが唯一の解決方法だと思った。
第5回終わり
次回は、一週間後の予定。なお、この小説は作者のフィクションであり、登場人物、店舗、
団体も架空のものです。
2005.10.08
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