その蕎麦屋は、杉林の奥、農家が途切れてもなお、奥まったところにあった。車の駐車ペース
から、4分ほど歩くから、不安で、引き返す者が出るに違いない。意図してこのような場所を
選んだのだろうか。圧倒的な杉の巨木が両サイドに立ち並ぶ道である。
長野を基点として、日光を経て、宇都宮に至る350kmの、にほんロマンチック街道。
その最終ラインになる、栃木の鹿沼から今市に向かう、杉林が埋め尽くす街道である。
その脇道を入って僅かな道しるべを探して、一人がようやく歩ける道を伝って、たどりついた。
たて看板があった。栃木、今市、蕎麦処[能登屋]、夜である。この時間に銀一が来なければ
いけない理由があった。
玄関に回る。暗い明かりの中で、携帯の液晶で照らして、営業時間を確かめた。
銀一は、全体を4方向から後ずさりしながら確かめる。
さらに、一周して、造作の木材などを点検しながら仔細に見て取った。
銀一は、輪島から、七尾を抜けて、福井に入るはずだった。輪島に着いて、朝市から、
その予定が狂い始めた。もう、夏休みに入ってはいたが、まだ大学生などの休み前なので
本格的な人出では無かった。朝市通りから、一本入ったわき道に、漆器や陶器、調度類などの
店舗が居並ぶ通りがある。輪島の目的は、輪島塗をその目でみることにあった。
屋号入りの蕎麦盆などは、発注してから、3ヶ月はかかるというから、その下調べもあった。
しかし、である。高い。銀一が良い塗りだなと思う、店は、多分特注などしたら、ひと盆が、
2万円位はするのではないか。
その店は、玄関を入ると、靴を脱いで、畳の部屋に入って、商品を見なければならなかった。
日本家屋自体が、お店になっていた。
屋号は、能登屋、一点、一点、敷物を置いて箸、薬味調度、椀、盆などが配列されている。
何軒もまわってくると、多少塗りの深さ、光沢に違いが見て取れるようになる。この能登屋の
作品は、銀一の浅い鑑識眼でも、品のある輝きと、落ち着いた色合いがあり、漆黒の肌合い
がみずみずしい。他の店と比べて、デザインに変化があり、現代を感じさせた。
漆製品は、手間が掛かるし、メンテナンスに難点がある。使用したあと、ぬるま湯で
洗い、水を大方とってから、目の細かい布で、しっかり水を拭き取らなければならない。
しかし、良い漆は、生まれた生地から、使うほどに、その肌合いをその店独自の表情に
変えるから魅力があるのだ。たとえ、手間が掛かっても、使いたくなるというものだ。
「お盆がよろしいのですか」女の声がした。年の頃は、40歳を超えたくらいだろうか、
和服をきっちり着こなしている。肩から、胸の周りに、はっ、とするような色気が
漂っているが、落ち着いた品の良さがあった。しっとりした美形である。
もうずいぶん長い時間、この店にいた。まして、座り込んで、その盆をしばらく見ていたのだから
気になっていたのだろう。
「蕎麦盆を探しているのですが、この盆もいいのですが、できたら扇形のものが・・・」
「蕎麦盆には、あんまり使わない形ですね」
「そうなんですけど・・、ただ、値が張るものだと、手が出ないんですが」
銀一は、大きさや、扇型の、カーブの描き方など手振りで示しながら話をした。
葱のおき場所、わさびを2種類置きたいことなど、つい熱が入っていて、自分でも終いには
苦笑したくらいだ。銀一は、自分が、全国を回りながら、修業の旅に出たことを、かいつまんで
話した。
「手打ちですか?このあたりにはあまり無いのですが・・なかなか大変なご商売ですね」
近くに寄ると、かすかに香水が匂う。やや銀一の胸が高鳴ったが、平静を努めた。
「いや、まだ修行中の身ですから」
しばらくお待ちくださいと、言って、奥に引っ込んだが、主人らしい男と再び、
現れた。
「ご要望通りのものがあるか、明日、蔵を見ておきましょう、もしまだおられるのならですが」
男は、手打ち蕎麦屋のことはよく知っているようだった。
銀一の、修業のことを興味深そうに質問したり、父親の蕎麦屋のことも、熱心に聞いてきた。
男は、中野 彦辰、この輪島塗の店主で、先ほどの女は、妻、栄子、年齢が30歳ほど違うから、
再婚は間違いないだろう。
「お蕎麦お好きなのですか」銀一が、尋ねた。
「色々縁がありまして、あまり詳しいことは、わからないのですが・・」
銀一は、しばらく輪島に滞留する旨を告げると、主人の彦辰が、民宿を紹介してくれた。
宿の思案をしていたので、銀一には好都合で、贔屓の宿なので、わがままがきくと、言ってくれた
申し出に、あまえた。
そこは民宿と言っても、なかなか立派な門構えで、料理人もいるし、仲居さんもいる、旅館と
変らないくらいの施設もあって、輪島でも人気のある民宿とのことだった
その夜、主人に無理を言って、銀一の要望の肴を用意してもらっていた。
よほど、能登屋とは懇意なのだろう、機嫌よく料理を作ってくれたのだ。
甘エビは、はらわたと味噌ををまぶして、身に乗せる。イカは、はらわたにわさび、醤油、酒、
梅肉を入れて叩いて1時間寝かせて、身に回しかける。即席の塩辛を作るのだが、スルメイカの
新鮮なものだと、はらわたを醗酵させなくても旨みが出る。その半分は、いしると一緒に鉄板で
焼く。これは、予想以上に香ばしくて、開店には、メニューに加えたいと思った。
すずきとさわらは、海塩で味付けしてもらって、フライにしてもらった。すずきは、さしみでも
うまいのだが、フライにすると、身の甘みが増して、白身魚独特の香りが楽しめる。
能登牛はステーキ焼きで、大根おろしと根生姜をすりおろして、地元の醤油でいただく。酒は
能登の白菊の大吟醸の冷だ。この時ばかりは、父親に感謝の気持ちが湧く。
これで、締めに蒸篭の一枚でもあればと思ったが、いしるを塗りこんで炙った焼きおにぎりが
出てきた。この焼きおにぎりは、薬味などを添えてほうじ茶でお茶漬けにする。
これがなかなかのもので、宿のオリジナルであった。いしるは、しょっつるやナンプラーと
同じ魚醤で、イカのはらわたを、3年ほど熟成させてつくる。鰯も同じようにいしるにするが、
こちらのほうが、ポピュラーである。
銀一が、イカの即席塩辛を、いしる
と一緒に鉄板で焼いたものだから、民宿の主人が覗きにきた。
「面白いもの見させてもらいました」
「いや、素人が色んなこと言いまして、手間が掛かったでしょう」銀一が、料理の労を
ねぎらった
「ステーキも生醤油をかけるなんてのは、思いつきませんでした。細工しすぎてました」主人は、
イカの即席塩辛焼きも宿の料理にしたいとヒントを貰った礼を言った。
「焼きおにぎり、絶品でした」いしるの販売店を主人に聞いた。
「塩も甘みがあるし、七味も良いし、調味料もどこのものか、教えてもらえますか」
「お帰りまでに、メモに記しておきましょう」
「この七味入れは、能登屋さんですか?」
「なかなかこのようなものまで、見ていただけるお客さまもおられませんが」
主人は、仲居に言って、能登屋の日本酒の杯を持ってこさせた。赤漆の楕円の変った形で、
内側に、押し金の百合の花が描かれている。見事な輪島で、めったなことでは、客には饗さない
のだろう。
「それと、能登屋さんから、差し入れです」
仲居が紐結びをした2本の酒を持ち込んできていた。地元酒で千枚田と言う名である。
「千枚田ですか。途中にありましたね、壮観な景色でした」
「能登屋さんからの添え書きが、ありますが」
「あ、わかった、わかりました」
「能登屋さんが推奨するだけあって、勘がよろしいがね」
「多分千枚田の、手づくり農作業と、僕の仕事の手打ちと・・」
輪島から曽々木海岸方面へ向かう途中、山の傾斜面から海へ向かい水田がいくつにも重なって
いる。千枚もの田んぼが重なるから「千枚田」と名づけられたらしいが、今では、2000枚以上の
稲田があるらしい。傾斜が強く狭いので、農作業機が入れないため、作業は全て手作業で行う。
銀一が、手打ちの修業旅に出ていることを聞き、地酒の中から、この酒をわざわざ選んでくれ
たのだ。
「僕のような、たいした客でもないのに、気を使って貰って」
「いい差しいれをしていただきましたな、能登屋さんは、なかなか人望もあって、輪島塗の
協会の理事長さんで、面倒見も良い人で、私ども、大変お世話になっております」
主人は、多少能登屋の、人柄などを教えてくれた。
「ご家族は?」銀一が質問した。
「それが、ご家族のご縁がうすくて、息子さんは東京へ行ったきりで、5年程前にお帰りがあった
とか、今の奥さんの顔も見てないのではないでしょうか?」
「再婚されたのですか?」
「3年前に。奥さんも再婚ですね、当時中学生のお子さんをお連れになって、もう、
大学受験だなんて話を聞いてますが、奥さん似の美人で、評判の娘さんです。ただ、
能登屋さんにしては珍しく、披露も何もなく、ほんの親戚に挨拶したくらいのもので・・」
「ずいぶん、ひっそり、としてたんですんね」
「うるさい人は、財産目当てだ、と最初は大変でしたけど、まあ、あの通り、美人で優しい人
だから、最近では、なか々評判も良いようで、安心しております。
でも、息子さんもおられますから、色々財産問題で、頭が痛いのでは・・」
「息子さんのお仕事は?」
「エンジニアとか、プログラマーとか、むつかしい名前のお仕事で、歳も40を超えたくらいか、
それがお仕事が変るとか、その事で財産分けの揉め事もあったようです。
これは、噂ですが」
少ししゃべりすぎたと、主人は、部屋を辞した。
翌日の夕刻、銀一は約束通り能登屋を訪ねた。店のものが、奥座敷に案内してくれた。
これは最大限の歓待だろう。
座布団は、藍染の特注だろうか。座卓は、厚さ1尺物のカンナで削った古代杉の1枚板。
足に曼荼羅の様な細工が入っている。米糠で何十年もかけて磨いた光沢が出ていた。畳は、
足をしっくりと包み込む。座って指で押すと、スーと跳ね返す。このような張りのある畳は
一度京都の老舗旅館で経験したことがある。密度が細かいのだ。その旅館の主人は、客が一番体に
触れるのは、畳だと言う。その居心地の中心に、最大の神経を使うのだと、かって銀一は聞いた
ことがあった。蕎麦屋の居心地の中心はなんだろうか・・。銀一は、まだ経験するものが少な
過ぎると感じていた。
床の間に、これ以上はないという極彩色の古九谷の細身の花瓶に大振りの百合が一本。色を感じる
ものは、これだけだが、輪島塗が、一つもないというのもおかしみがあった。
百合の芳香が、やや強いのが気になったが、
自分が蕎麦を打っているせいで、蕎麦の香り以外のものを気にし過ぎるのだ。
「お待たせしました」主人のあとに店のものが、蔵から出してくれたものを、用意してくれた。
「昨晩、私のようなものに、大変良くして頂きまして」
銀一は、昨晩の日本酒のお礼を丁寧に述べた。主人の彦辰は、ただ柔和に笑い、
銀一に、作品を見るように促した。蔵に眠っていたものは、それだけ癖があるのだろう、ほとんど
のものが意欲的で、斬新な細工が施された逸品ばかりであった。
「どうですか?」
銀一が、先ほどから、その盆を持ったまま、押し黙っていたので声をかけた。
「見事なものですね」漆黒の肌合いが、目に柔かい光を投げる。その肌の中に桜の影彫りが
散らばっている。このような輪島は初めてだった。大きさ、上方の丸みも良く、しばらく言葉が
出なかった。
「お気に召しましたですか」
「こんないいものが使いこなせるかどうか」銀一の正直な感想だった。
「使われないものは、ゴミと同様です。心なしか今日は、盆が目を覚ましたようですな」
「まだ、修行中ですから、いつ受け取りに来れるか、値もはるでしょうから」
「銀一さん、それはあと15枚、蔵にあります。20枚セットの半端物ですが、使ってください」
唐突な申し出であった。
「それでは、あんまり・・」銀一が繰り返し、辞退した。
「いや、物は、使われて値打ちが出ます。昨日の料理のことも、千枚田のことも聞きました。
久しぶりに、よい話を聞きましたがね。・・・それといい頃合いだったんでしょう。
あなたが現れたことは何かの巡りあわせだったんでしょう。いや不思議ですな」
柔らかな目で、銀一を見た。
「巡りあわせといいますと?」その理由を訊ねた。
「・・お願いしたいことがあって」是が非にも受けてもらいたい。そんな気持ちが目に現れていた。
「栃木に行って、蕎麦屋を見てもらいたいのです」
輪島から、栃木へ。東京に近づくが・・。不可思議な力が銀一を押していた。
第1回終わり
次回は、一週間後の予定。なお、この小説は作者のフィクションであり、登場人物、店舗、
団体も架空のものです。
2005.09.09
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