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利賀村謎解き蕎麦 第1回 作 夢八
銀一の頬を、冷たい風が突いた。小川の水の冷気を、川上から吹く風がまくるように持ち上げて、
上半身を叩いていた。
・・まだ歩くのか・・この道では独り言が出てしまう。
雑草を蹴り上げるようにしばらく歩くと、{帝庵}と言う小さな看板がようやく見えた。
こんな山奥にしては、大げさな屋号だった。もっといい名はあったろうに、と
また独り言が始まった。
銀一が、修業に入る、店だ。富山の利賀村に、その店はある。銀一の父親の命で、まず一店、
最初に彼の腕を磨くために用意されていた。
「いいか、10店だ、10店で修業して来い。そうしたら、お前の店を用意してやる。
紹介は1店だけだ。」
「後の、9店は?」
「それは、お前の才覚だ、なんとかしろ」
無茶な話だった。しかし、何とかしろが、父親の繰り返した一言。それが、銀一の長い修行旅の
始まりだった。
「よく、来られましたな、丁度、職人の一人が昨日から休んで、困っとったがや」
・・・ちぃ、代わりかよ・・・
亭主の、泰次は、声を上げて喜んでいた。
父親の顔を思い浮かべて、一瞬恨んだ。遊びに来るにはいいところだろうが、
修業には、辺境過ぎる。明日からのことを考えると、虚しい思いがした。
自分では1人前以上に蕎麦は打てる。・・・その俺をどうして、こんなところに・・・
しかも、これが、一店目だ。恨み言の一つも言いたくなる。
利賀村は富山県南西部、岐阜県飛騨山峡と境を接する豪雪山村である。
村は、 深い谷間に点在する20程の集落で形成され、村の90%以上は山林原野で、農地はごく
一部である。
その村は、近年蕎麦の観光地として賑わっている。蕎麦店も10店ほどあり、手打ち教室もあり、
観光誘致に村を上げていたから、かなりの成功を収めていた。
合掌造りの世界文化遺産もあり、また、年に大きなイベントも行われ、観光村としても
最近注目されだしていた。
修行をしてこいと言うからには、見聞を深めろと言う意味もある、そう勝手な解釈をして、
とりあえずは、観光を楽しんで、地元のうまいものを頂かねばならない。
利賀村に上がるには、庄川峡から遊覧船で、のんびり入るのが楽しい。途中鮎料理を食して
利賀名物の堅とうふで、日本酒をなめる。これは、親父に感謝だな・・。
一日[帝庵]に入るのを遅らせて、熊料理を食べさせると言う、利賀村でもかなり奥まった
民宿に一泊した。熊料理と蕎麦も両方食べさせる民宿は、利賀村でも、ここしかなく、
かなり歩いたが、門構えもなかなか立派で、探しがいがあって、満足した。
もっとも、シーズンオフもあり、ここまで来る物好きも稀なのだろう。宿泊は他に一組だけ、
それも、人目を忍ぶ不倫カップルらしい客だった。
もっとも、それは、後で、わかったことだが。
食事前に、岩風呂に入る。肌をなめらかに滑る湯で、銀一の好みのぬるま湯で、湯量もたっぷり
注ぎこんでくる。体を洗っていると、勢いよく、一人入ってきた。
薄暗い照明のせいで、輪郭しか見えないが、なかなかの筋肉質の体をしている。
そうか、この男が相方か、先ほどの仲居との会話を思いだした。
「今日は、お客さんの他、アベックさんが一組で、部屋食になります」と、仲居。
「イヤー、部屋食はありがたい。部屋食だと、高いんでしょう」
「アベックさんが、外にでたがらないもんで、食堂はいや、言うて。
値段も、食堂で食べる同じ値段です、今日はおまけです」
「わけありだな?その二人、旅行客?」銀一も、なかなか聞きたがりである。
「このへんの人みたいやけど、時々来られるがや・・」そくさくと、仲居が出て行く。
何気なく見た、男の横顔は、シャープで、歳は、銀一より5,6歳上か。
つい相手の女を想像してしまう。不倫の常連客か。
狭い岩風呂なので、男と目が合うことになった。
「旅行ですか?」気さくな感じで、男が話しかけてきた。
「そんなようなモンです。まあ、気楽なもので」適当に銀一がこたえた。
「このあたりだと、蕎麦のおいしいお店はどこなんでしょう?」銀一が今度は質問した。
「・・・そうですね、まあ、美味しいところは、沢山あるけど、帝庵あたりが・・・」
銀一の修業の店だ。男は標準語で答えると、急に湯船からあがり、洗い場に移った。
余りしゃべりすぎても、困ることになるんだろう、と勝手に解釈した。
銀一は寝る前の一風呂を楽しみに残そうと、、早いが湯から上がった。
出口前に来たとき、女湯から髪の長い女が隠れるように前を走り去った。
まだ経験したことの無い、不思議な残り香も、走って行った。
風呂から出るときに、サングラスは無いだろうに、不倫を白状しているようなもんだな・・。
もう少し、顔を見たかった気がしたが、きれいな輪郭をしていたように見えた。
何でこんな詮索好きなのか、少し恥じて、夕食を待った。
銀一は、熊は初めてだったが、味噌鍋の熊肉は、やや固めながら、甘みがあってなかなか
ものだった。
鍋の終わりに、主人が打ったという蕎麦も、つなぎ2割くらいだが、しっかりしていて風味が
あった。つゆに椎茸がききすぎていたので、井戸水で頂いた。
遊びで水蕎麦にしてみたのだが、その後、主人が様子を伺いに来る一幕もあった。
水蕎麦で食べる客なんか、初めてで驚いたのだろう。
そこそこ満足して、やや寝すぎ、宿を出たのだが、不倫組は、まだしっかり寝ているようだった。
五箇山の寺で遊びながら、帝庵には夕方、ゆるゆると入ろうか・・なかなかの修行旅かなと
満悦していたのだが。
「おい、鷹見庵の息子さんが来られたがな」
襖を開いて、上がってきた女は、娘か、奥さんか、銀一には判別がつきかねた。
30歳を超えたくらいだろうか、泰次は、60歳に近い。
「いやぁー、女房でな・・」
照れくさそうに、泰次が歳の離れた、妻を指差す。
「よくいらっしゃいました。コンナ山奥まで大変でしたでしょう」
切れ長の目が印象的である。真紅の口紅が、やや、ふっくらした唇に塗りこめられて
セクシーな表情が浮き立っている。黒髪も豊かで、銀一には、眩しい。
「これは、東京育ちでな、そばが好きで、その縁で・・」自慢の妻なんだろう・・。
3年前ほどに、この庵を訪れ、何回も訪れるようになり、泰次が休日主催している
蕎麦教室の熱心な生徒になったそうだ。それが、なぜ泰次と結婚したかは、そこまでの
説明は無かったが、およそ、不釣合いな感じではあった。
「このあたりは、初めてですか?」若妻が聞いた。
「そうです。イヤーいいところですね、蕎麦もうまいですが、豆腐も、おいしいし」
銀一が答えた。
「もう、食べられましか、この辺のもん」泰次が、丸抜きの蕎麦の実を選別しながら言う。
「ええ、実は昨日から入ってまして、民宿で一泊して、熊料理なんか食べました」
「そうながや、このあたりは、民宿でも、うまいもの食べさすし、蕎麦もうまいわね、
鷹見庵の親父さんに似て、食は確かやね」泰次が、ひとしきり、兄弟子だった、
銀一の父との思い出話をする。
父と、泰次は、足利の名店と言われる蕎麦屋で、修業した兄弟のような間柄だったと言う。
当時は、手打ちが注目されだしてきた頃で、二人とも先見の明はあったわけである。
手打ち蕎麦の歴史は意外と浅いのである。神田まつや、藪系列、一茶庵などが先鞭をつけ、
そこで修業した蕎麦職人達が、全国に散らばって、今の蕎麦ブームの土台を作った。
柏竹やぶ、翁の二店の名が出るに至って、産業界とも連動して、文化食の地位を占めるように
なってきた。
「若い頃の、話なんて聞いたの初めて」若妻が無邪気に喜んだ。
「あんころは、銀一さんのおとうさんと、よく悪さしてな、ま、そんな話はおいおいに」
泰次の青春が、少しよみがえっていた。
「どこかでお会いしてますね?」銀一が、気になっていたので、華子の、
その切れ長の目を見つめて、言った。
華子の瞳が一瞬、宙をさまよった。
「いえ、初めてだと思います」華子は応答した。目が、銀一をまっすぐに見ていた。
どこかで、会っていた気がしたが、思い出せなかった?しかし、この事は、
銀一の中では、すぐに忘れてしまっていた。
第一回終わり
なお、この小説は作者のフィクションであり、登場人物、店舗、団体も架空のものです。
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