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今夜の番組チェック

 2005.04.03土方敏夫氏講演概要 

by大石さん

(photp bu Mr.Kanda)

於鎌倉BonBon 1300〜1530
黒字は当日配布された資料の文章
青字は土方氏の解説
赤字は私の勝手な推論と感想(用語の解説もあるけど)

1)本日の機会を与えてくださったことに対して
戦後は教壇に立ってきたので、レクチャーは得意、椅子は必要ありません
2時間以上、立ったままで講演された。

2)海軍第13期飛行予備学生、私の履歴
物理学校在学(現東京理科大学)
土浦(基礎課程) 18年10〜11月(2ヶ月)
(理系学生は2ヶ月、文系は4ヶ月)
東京(羽田飛行場) 93式中練 18年12月〜19年3月(4ヶ月)
元山  96式戦闘機 19年4月〜19年8月
元山空教官 96戦、零戦 19年9月〜20年3月
戦闘303飛行隊 零戦52型、鹿児島) 20年4月〜終戦
第13期は総計5000名あまり、全国の大学、専門学校生。雨の中を神宮競技場で出陣式を行ったのは14期が相当する。
13期は30パーセントが戦死。基礎訓練中にはモールスを覚えることが難しかったと記憶している。
自分は飛行時間が460時間ほど。これは元山空で教官をやらされたためで、ほかの同期生は150時間あまり。元山の練習航空隊(戦闘機専修)で同期生数十人中、戦闘部隊に廻されたのは自分だけ。あとは特攻隊。
元山では最初96艦戦で練習した。ほかの部隊にいる同期生は零戦で訓練していたので当初羨望を抱いたが、「96式でみっちりやっておけば間違いなし」との教官のお言葉。
96艦戦は着陸操作が難しい。まずエンジンが大きくて着陸時など前が見えず、脚の間隔が狭いので「グラウンドループ」(ヒッカケラレ)を起こしやすく、特に横風に弱かった。ただしアクロバットには最上の機種と思う。 教官として、特乙予科練と予学14期を教えた。
零戦は脚間隔が大きく、着陸進入時に前もよく見えて全般的に操作が楽で容易な機体であり、知っている限り零戦の悪評をいう搭乗員はいない。

わたしの人生はほぼこの2年間に凝縮した感じを持っており、そのあとの人生はいわば借り物である。

土浦航空隊での基礎教育たった2ヶ月で士官の基礎教育というのはすごい。自分の経験からも、2ヶ月では海軍式生活のほんの基礎だけ叩き込まれたに過ぎないと思う。隊伍を組んでの行進や敬礼がようやく揃って行えたくらいか。でもそれだけで士官としての自覚をもって指揮官として任に当たったということであり、国難に当たっての学徒出身者の意気と責任感が強く感じられた
練習生上がりで資格取得後すぐに教官配置となるのは、やはり技量抜群だったことの証で、英米でも同様。このほか、ライセンス取り立てではともかく飛びたいはずで、毎日早朝から夕方遅くまで飛んでも若者は疲れを知らない。
逆に戦地の経験者で「ご苦労さん配置」により教官となったものには、同じメニューの繰返しで忍耐を強いられる飛行教育に必ずしも熱意が沸かない場合も多かったという。
英国の爆撃機搭乗員では、九死に一生で義務回数(30出撃)を終えて練習航空隊に教官として回った場合でも、連日へとへとになるまで飛ばされ、かつ事故も多い環境に嫌気がさして、前線復帰を熱望するケースが少なからず。
96艦戦が離着陸で気を使う機体だったことは興味深い。いまあれば人気者No.1間違いなしか。

3)優等生ではだめ
旋回計の(ボールゲージの)玉を真ん中にして操縦
これは練習航空隊で習った飛行の基礎にして必須。ただし、実戦では空戦中にまっすぐ飛んでいると飛行経路を読まれて落とされてしまうので、すべりを多用した。

教官ドノはテキストブックにあるような模範的操縦を行うはずで、最初そのように故意にへんてこりんな操作を行うのは抵抗があったかもしれない。以前がらんどうさんのBBSで、空戦中滑らせることについて皆さんと議論したが、どうも私が間違っていたみたい。でも照準するときにはまっすぐ飛ばせなくてはならないだろう。

機体を滑らせる練習はカリキュラムに無い。試験飛行と用務飛行(新機体の領収など)の時がチャンス。
通常の訓練では編隊で飛行するため、勝手に滑らせることは事故の危険あり。ゆえに整備完了機の試験飛行など単機で飛行するチャンスをできるだけ確保し、自習に努めた。大きく滑らせると「サイドフォース」で体が大きく片方に寄せられるのは意外な体験。ボールを真ん中にするように飛んでいては、そのようなことは起こらない。
「ひねり込み」は通常の練習で正課として演練した。宙返りの頂点あたりで、操縦かんとラダーを逆操作(サッと行う)することにより「サッと」回る。ただし実戦で使ったこと一度もなし。そもそも宙返りの頂点では速度が死ぬので、混戦中にそこを狙われたら弱い。スロットルはフルパワーのまま。

なるべく試験飛行や領収飛行を買って出て、自己トレーニングに励まれた由。研究熱心でなくては技量が上がらないのは自分の経験でも言える。「ひねり込み」は単なる名人芸ではなく、訓練課目としてやっていたというのが今回知った新事実である。私としての解析は別途記述する。
実戦の戦訓が必ずしも教程に組み込まれていなかったようである。

あと、「ボール」というのは、すべり計のボールであり、操作中にボールが流れた場合:
1) ボールが流れた方にラダーを踏み込むか
2) 逆方向に操縦かんを戻すか
3) いずれかの按配で修正する。

そもそもラダーを操作する意味は:
「補助翼抵抗」の相殺。旋回のためバンクするのに操縦かんをたとえば右に倒したとすると、左翼のエルロンが下がり、右翼のエルロンが上がる。この場合にあいにくと左翼側の抵抗が増大し、右翼側の抵抗は減少する。そうすると、右に旋回したいのにノーズは左を向いてしまう。胴体には右側面から風圧がかかる。これが「補助翼抵抗」「アドバースヨー」といい、この場合には傾けた側に滑るので「内すべり」という。
このとき、その逆方向へのヨーを相殺するために、ラダーをエルロンとコーディネートさせて同方向に踏み込む。
逆にラダーを踏みすぎると、「外すべり」となってしまう。ボールの位置をモニターしつつ、ちょうどよい塩梅の「手足の一致」を覚えるのが第一関門。

それともう一つの役目は、プロペラの回転により生まれるジャイロモーメント、トルク(反作用)ならびに「Pファクター」の修正。Pファクターとは、迎え角が大きな場合、たとえば操縦席から見て右回転の場合には、推力軸が機軸よりかなり右にシフトする現象をいう。

旋回のために操縦かんを倒したままではバンク角がどんどん増えてゆく。エルロンとはそういう舵。

所望のバンク角に達したならば操縦かんを中立にもどすか、あるいはやや逆にとる。これを「当て舵」という。操縦かんを戻す場合、ラダーあわせて戻す。
その際にあわせて、エレベータを引きつけ、バンク角によるGに対応して揚力を増加する。でないと高度が下がってしまう。

そうすると機体全体での抵抗も増えるので(主として誘導抵抗)、パワーを入れる必要がある。
そうするとプロペラの作用(トルクとPファクター)も変化するので、ラダーを使って相殺する。
そうすると・・・。

つまり操縦とは、3舵とパワーをいかに協調させて、すべらせず、滑らかに、速やかに姿勢を保持し、かつ変えること(いちいち書くと際限がない)

スピードの保持と見張り、使ったのは連続スローロール。
空戦中に重要なのは速度。最初のころは見張りすらおぼつかない。空戦中にリーダー以外目に入らなかったこともある。最初にヘルキャットを落としたときも、最後まで追撃中の機体しか眼中になかった。しかし援護してくれたベテラン下士官によれば、追撃中に別の敵機から2回も射撃を受け、かつ周囲は敵だらけだったとのこと。
空戦中に様子見を行う場合でもまず水平飛行は行わず、すべりを混ぜた連続スローロールを多用した。
ともかく、第1回目の空戦で未帰還となる例が多く、それを乗り切れば逆に生き延びるようになる。先輩からもそういわれた。

自分の経験でも、見張りが行えるようになるには場慣れと経験を積む必要あり。初回で生き延びればあとは続くというのは、ほかのエースによる記述と同じである。

4)部下を思いやることは
仏の分隊士 第4旋回に直通
出撃して帰投時は燃料がかつかつ。とくに列機は隊形維持のためスロットル操作が増え、燃料消費も編隊長に比べて大きくなるのでいっそう燃料がぎりぎり。最初のころ基地上空に帰ってから、テキストブックどおりの間延びした編隊解散を行ったところ、列機の部下から「燃料がギリギリで困ります」と言われた。

「間延びした編隊解散」とはすなわち、滑走路上空を風下からまっすぐに進入し、かなり風上でおもむろに風下に180度旋回し、トラフィックパターンに入る方式。列機は間合いを置いて1機ずつ順次同方向に180度旋回するが、旋回開始ポイントが1機ずつ伸びて行き、飛行経路が長くなる。場周経路に入った状態で各機がセパレーションを取るためにそうする。

それで、編隊長は部下の状況まで心配りを行い、特に編隊解散ではリーダーは滑走路直上でサッとピッチアップを行い、すぐに場周経路に入れてタイトに回って降りるように心がけた。そうすれば列機もすぐに降りることが出来る。外見はハデに見えるけれども、時間と燃料の節約を行っているのである

グライダー曳航機を操縦する自分としても、引っ張っているグライダーとその操縦者に対して最大限に気を使う。旋回するにしても、編隊全体の軌跡を考えなくてはならない。編隊という「大きな飛行機」を飛ばす感じである。

編隊長は後ろにも注意を払い、気を使わなくてはならないそうだ。編隊長はフルパワーを使ってはならないという記述を読んだことがある。さもなくば列機が付いて来ることが難しくなる。
やはり経験、技量が上でなくては他人を気遣う余裕はとても持てないと思う。

山河大尉と航空時計
元山から特攻隊が九州への移動に出発する間際、ある下士官搭乗員が「時計が壊れました。だれか持っていませんか?」と言ってきた。そのとき自分は渡そうと思ったが、ちょっと逡巡している間に、下士官上がりで大ベテランの山河大尉がサッと「これを持ってゆけ」と首下げ式の航空時計を手渡した。その場で瞬時的確に判断を下し、行動するのは、さすが大ベテランと感じた。
その航空時計とは、訓練に使用する写真銃に収めてあるスイス製のウォッチを失敬したもので、みんながそうしていた。けれども「失敬」したものであり、果たして他人に渡してよいものかという迷いがそのとき頭を過ぎったためである(実物を見せてくれた。もう動かないが、いまでもそのときの教訓を忘れないため書斎にぶら下げてある)。

むかしは私もウジウジした少年だったけれども、操縦をやり始めて以来、「早い判断は最上の戦法にまさる」という誰かエースの格言を信条としてやってきた。すると、けっこうサッと判断し、行動できるようになる。いまでは「早とちりもいいかげんにしてちょうだい」と妻に言われることが多いけれども、何かと「パッと見てともかく瞬時に決めてしまう」性格にかなり染まってしまった。ただしそれには土方氏とは比べ物にならないほどの年月を経ている。ほぼ最初からそのような行動ができるのは、集中した訓練、苛酷な環境とあとは個人の資質と適性であろうか。

今の年齢の私であれば、そのときの山河大尉と同じ行動をとれる自信はある。
各個人がどのような素質であろうとも、軍隊での士官教育とは、かなりの程度そのように訓練するのであろう。

5)喧嘩の仕方
空戦感覚は場数が必要
ともかく、初陣で未帰還が非常に多かった(既述)
下士官の援助、階級では喧嘩はできない
そのころでも部隊にはラバウル帰りなどのベテランが多くいた。下士官と仲良くなり、たくさん助けてもらい、教えてもらった。

岩本「虎徹」、谷水竹雄氏など。年齢も上。すごいの一言。

6)強い戦闘機乗り?
責任感・・・・・俺がやらなくては、誰がやるのか。
グラマンに上から奇襲を食らったとき、岩本徹三少尉の言葉。大言壮語する奴は強くない
あるとき、グラマンF6Fの一団に優位からかぶられてしまい、下方に逃げた。列機も続いて逃げてしまい、岩本少尉が一人で立ち向かった。その晩の反省会では、岩本少尉に「下方に逃げ出すとは何事だ。そのような場合は敵機の軸線をよく見ること。軸線が外れていれば自分は狙われていない。その場合はさっと外して敵に上位からかぶるように機動しなければならない」と諭された。
元山空ではライフジャケットの背中に各自官姓名を明記していたが、岩本少尉の場合は「天下の素浪人(
だったかな)」と書いていた。

公と私・・・・・公に対する責任感
戦う場合には、自己の任務遂行に対する責任感が重要である。

7)最後まで望みは捨てない(推測航法)
沖縄帰り、不連続線(温暖前線)、ラバウル帰りの山口上飛曹
ある沖縄への出撃(沖縄通い)の帰途、不連続線(温暖前線)に遭遇した。温暖前線は寒気の上に暖気が斜めに(傾斜5〜6%)かぶさる断面構造で、接近するにつれて雲底がだんだん下がる。そのときは視界不良で機位を失い、おなじく別位置で帰投中の山口上飛曹と無線で話しつつ飛行。
主翼タンクが空となり、胴体タンクに切り替える。あと30分で燃料は無くなる。ほとんどあきらめかけ、海中で鱶に足から食われるよりもと、拳銃を口にくわえて自決しよう試みた。しかし引き金が引けない。
以前にお寺で「南妙法蓮華経」をやらされたので、それを唱えて海面を這いつつしばらく飛んだところ、とつぜん前方に島の岸壁が現れた。ただちに垂直旋回で回避し、地点標定。そこは通常なじみの航法目標である九州南方の黒島で、そこから針路を定めて基地に帰投できた。
無線で励まし合いつつ飛行していた山口上飛曹は結局未帰還となり、運命の無常さと「運」を実感した。

海軍航空機の航法は大別して推測航法と天測航法に分けられるが、単座戦闘機はすべて推測航法を行った。航空図にコースを引き、風の修正角を加味してヘッディングを決める(これがいわゆる「偏流修正角」)。横風がある場合は、風上に機首を振ることにより流れを相殺し、コース上を進む。
当時戦闘303の零戦の水平尾翼には、艦攻などと同様に偏流角測定用の放射状の線が記入してあった。後方に流れてゆく海面の波頭などを線に比較して、偏流角を見出す。参考として当時の航空図をここに示す。

当時の航空図で、まことに貴重品である。今のチャートと比べると地名が数多く記されていて、当時の地文航法に役立つようになっている。端正な文字と線で飛行コースが記入され、ほかには乱雑な書き込みがないのが印象的。自分のチャートと大違いである。すなわち、「命綱」ということであろう。なお、零戦で水平尾翼上面に偏流測定用の放射線が施されているというのは初めて知る事実である。

当時無線は感度が悪かったが使用していた。米軍は毎日周波数を変更するが、たまに日本側の周波数と同じになることがあり、その場合は英語だけよく聞こえて、味方の通信は聞き取りにくいのが強調された。マイクロフォンは当初咽喉マイクだったが、昭和20年に入って酸素マスク内臓式となった。

当時の無線機は、水晶片を交換することで周波数を変更したということである。

モールス式の無電は1回だけ上空で使用した。元山航空隊当時、べつの仕事として気象係を担当していたが、その仕事場は通信室だったので通信科員と仲良くなり、モールスを実際に使うことがあった。
それで、元山から九州に進出する特別攻撃隊を誘導したとき、無線電話の範囲外となり「ヒジカタチュウイノブウンチヨウキュウヲイノル」とモールスでの連絡が入り、それに応答した。

操錬(部内選抜)出身でもと機関兵の羽切松雄氏は「信号についてもともと分からない上に、操縦練習生の半年だけの基礎教育でも信号をよく練習しなかったため、実戦で味方艦の信号旗やモールスが分からずに困った」と記述されている。

8)実戦の心理
100メートル競走、無我夢中、恐怖感はない。敵機が見えない。
たとえば運動会の徒競走で待機中からスタートまでは焦燥感がつのり、トイレに行きたくなることもあるだろうが、スタートしてからは全力疾走で無我夢中。空戦中はまさにその感じである。ただし、最初はリーダーの2番機として付いてゆくのがやっとで、敵機も他機も目に入らない。「付いてくるだけに専念せよ。機銃を撃ってはならない」とも言われたこともある。

類似の心情を表すのは難しいと思われるが上手な比喩であり、未経験者の私にもわかる感じがする。ともかく、「これから出発するぞ」というときは、大空に立ち向かう気分がみなぎるというか、やはり気が引き締まる(とても比較にはならないけど・・・)。

カウルフラップの開閉ができれば一人前、場慣れが大切。
空戦中はいろいろの情報が入り、見張りも行わなくてはならずオーバーフローしてしまうが、場数を重ねるにしたがって全般的な状況も見えるようになってくる。たとえば栄エンジンはシリンダー温度180度付近がちょうどよく、それより高いとオーバーヒート、低ければパワーが出ない。シリンダー温度計は計器がずらりと並ぶ計器盤でも右下にあり、目に入りにくい位置にある。空戦中に余裕が出来て、その計器までモニターでき、操縦操作を行いつつ手動式のカウルフラップのクランクを調節できるくらいになれば一人前である。

カウルフラップの操作を行うのが一人前といっているのではないであろう。機体システムのマネージメントでは、そのほかにいっぱい操作、監視項目はある。要するに、そのくらい余裕ができなければならないということだろうと思う。
この点、双発のP-38の初期タイプにおいては戦闘時の操作が複雑であり、とくに新前には荷が勝ちすぎたそうである。それを不満とする米軍部隊の指揮官の文書(というか直訴状)をほかのウェブで見たことがある。

初陣での戦死率が大。

何といっても単座機であるので、どうにも直接助けようがないのは過酷。現在の航空において単座機というのは、軍用機、曲技機および競技用グライダーだけであり、キャノピーを閉めるとコクピットに一人だけという気分は一種格別。今日セスナのような小型機を飛ばす人種とは全く別で話が合わない(あの人たちはブレザーみたいなジャケットを着て乗るみたいだけど、私はそんなこと絶対にしない)。

9)喧嘩に型はない
フィードバックの遅かった海軍・・・・・編隊空戦
2機単位による戦法は、太平洋戦争開戦前に早くも中国で実践されていて、その後横空で研究された。ドイツのロッテ戦法に範をとるもの。ただし自分の隊では、たとえば長機の技量が低い場合、あるいは信頼できない場合は分離してしまいがちで(たとえば同期生と組む場合など)、徹底が不十分であった。その点米海軍は徹底して2機一組で戦っていたように感ずる。

日本海軍は、経験の多少によらず階級上位者に指揮を取らせていたそうだが、これが障害だったのではないか。すなわち、経験と場数を踏んでいる者をリーダーに指名すれば、不信感などは生まれにくいと思う。米軍では、たとえば朝鮮戦争では規定出撃回数を100回とし、そのうち最初の50回は列機、その後は長機を務めるシステムだった。またドイツ空軍でも、新前の士官はベテランの下士官について飛んでいた例がある。
経験が少ないのに部下を率いて飛ぶのであるから、よけい大変で気苦労、重圧もあったことだろう。若い身空でよく責任をこなしたというべきか。

道場剣道(1対1の基本)と野試合
1対1の試合そのものが日本人的「立会い」の考え。実際の空戦は集団で立ち会う「野試合」であり、背後から切りかかられることが普通。

ひねり込み、名人達人の落とし穴、新しいものを嫌がる。
異種戦闘機との空戦演技、零戦同士のひねり込みばかり。
新しい思想、戦法ならびに異種戦闘機での空戦訓練は行われていない。旧守思想が強かった。かえってひねり込みをやると、空中に一時停止することとなって、そこを狙われる。空戦中は対気速度を保つことが非常に重要であった。

マニューバーを行うときに限らず、飛行中は常に「エネルギー」を意識する。着陸時も同様。エネルギーには「高度」(位置エネルギー)と「速度」(運動エネルギー)がある。

蒙古襲来と国民性(矢の射程距離が2倍、集団戦法)
グラマンF6Fは大馬力であり、やはりダイブでは追いつけない。ほとんどの場合に上方から敵が降ってきて乱戦となる。そのような状態で「ひねり込み」を発揮するような1対1の巴戦はほとんどない。蒙古襲来時に日本の侍が単騎で出会い、大勢の蒙古兵に包囲され矢の的になった事例に似ている。

零戦の20ミリ、13ミリ機銃の併用、携行弾数不足
私が感じる零戦の本質的欠点として、異種機銃の装備が挙げられる。これはあまり言われてはいないが、照準の際に、弾道が異なるために収束点が別々であり、見越し角度を分けて考えなくてはならなかったのが非常に不便であった。その点でF6Fヘルキャット、F4Uコルセアなど米国の戦闘機は12.7mm統一であり、照準もシンプルに行えたと信じている。ともかく多銃装備で弾幕を張られてしまう。
零戦52型の場合、引き金を10秒間引き続けるだけで弾薬は終わってしまう。タマが足らなかった。弾切れでも空戦中に背中を見せて逃げるとそのまま食われることになるので、あたかも射撃できるように装い、引き続き機動する必要があった。タイミングを見計らって離脱するのは難しいことである。

朝鮮戦争では、Mig-15に追いつめられたF-86Fの頭上を23mm砲の弾丸、下方を37mm砲の弾丸が流れていったと記録にある。零戦の20mmエリコン機銃の評価を調べる必要がある。あとスピットもか

B-29邀撃にはいくどか参加した。テキストどおりの後上方攻撃では速度差が少ないので機銃の弾幕につつまれて、まず撃墜される。前上方(高度差約600m)から逆落としで攻撃すると、相手には零戦の正面のみ晒すだけであり、被弾確率も少なくなる。ただタイミングが重要であり、実施するには高度の技量が必要で、部隊でも少ない者しか行えなかった。
垂直降下でB-29に迫ってゆくと、自分の射弾が当たるのがよく分かった。

あるとき岩本少尉と2機で鹿児島上空でB-29にまず煙を吹かせ、エンジンをひとつ止め、それをさらに追跡して撃墜したのは屋久島の南方であった。

10)闘魂
出発のときの水盃・・・・・叩き落して帰ってくる。
荷物の整理などを始めると戦死。
出撃の都度別杯を交わした。そのとき、直援隊とはいえ半分の人間が帰ってこないと思うと無常であった。盃を叩き割って「かならず帰ってくる」という決意を持たなければだめ。几帳面にも荷物整理などをやる奴がいるが、だいたい次に帰ってこない。

11)宿舎への帰り道
杉林中尉;畦道で、おばあさんと女の子
鹿児島では基地から離れた場所の農家に分宿していた。夕刻付近までトラックで送ってもらい、あと同僚の杉林中尉ととぼとぼと畦道を歩いていると、おばあさんと女の子とすれ違った。そのとき「この人たちのために命を捧げよう」と一瞬強く思った。そこで杉林にそのことを言うと「俺もだ」という。
これが当時、特に予備学生出身者を含めて若年者の偽らざる心情であったと思う。

渡辺洋二氏の著書にも、戦争末期に士気を支えていたのは若年者たちで、学徒出身士官のモラルも高かったとある。

天皇陛下;緑美しい祖国の国土の象徴。
いわゆる「天皇陛下万歳」であるが、なにも天皇自体を指すのではなく、美しい国土と家族、同胞を現す総体としてそのように叫んだのだと信じている。部隊では4名くらい事故での同僚の死を看取っただけであるが、間際に「おかあさん」というのがほとんどであった。やっぱり母親は強く、父親は出る幕がない。

率直に吐露された。実感がこもっていて私などがあれこれ言う資格はない

12)不平を言っても始まらない。
96戦と零戦、始めてGを経験
*Gについて
初めてのG、零戦のG、岡崎テストコースでのG
戦闘機で機動中、とくに急旋回などでGをかけると、(グレーアウトにより)Gが増大するにつれて視野がだんだんと狭まり、ついには追尾している機体だけが明るい円で囲まれ、周囲は暗くなってくる。操縦かんの引き付けをゆるめてGを減少させると、それに応じて視野がいくらか広まる。Gに応じて、視野の明るい円が狭まったり、拡がったりする。そのうちに、Gを感ずること自体が快感となってくる。
戦後まだ東名が開通する前に、三菱自動車の岡崎テストコースでスポーツ仕様の車を運転させてもらったが、バンクつきのカーブで最大バンクのところを通った。「しろうとさんであそこを通る人はなかなかいません」というテストドライバーの指摘であった。
当時三菱自動車には、曾根技師など零戦関係者がいたのである。

ついでに高速道路で車間距離標識でたとえば50メートルの距離をつかむと、先行車を見て「いい射距離だ。当たるぞ」と内心思うことしばしばである。

また、今でも遊園地の遊具でマイナスG(エレベータの中でフワッと浮き上がる感じ)が強くかかっても平気である。とくに曳的射撃訓練において、射撃を終わって標的をよける際、機首を突っ込んで強引に避ける。そのときに強烈なマイナスGを経験する。

さすが「慣れ」というのは恐ろしい。私自身はジェットコースターが大嫌いであり、曲技飛行はやらない。小型機で日中飛んでいると、気象条件にもよるが、気流で相当揺さぶられる。いわゆる「エアーポケット」みたいなのにもよく遭遇する。普通の人はあれで酔うかもしれない。

13)特攻隊について
作戦ではない。私は行きたくはなかった。
特攻隊には納得が行かなかった。正直行きたくはなかった。空戦で撃墜され戦死するのであれば、それは自分のパイロットとしての腕前が劣っているからであり、戦闘機搭乗員として本望といえる。

腕前で勝負というのを伺って安心する。私もアマチュアパイロットながら、技量では誰にも負けたくないという気概を持ち、また少しでも上手くなろうと努力している。飛んでいるときだけでなく、日常飛ぶことに有益な情報をあさり、さまざまな書籍、資料ですこしでもヒントになることを集め、暇を見つけて自習を心がけている。夢と向上心とフレキシビリティが萎えてしまったならば、そのときに飛ぶのを止めるつもりである。

特攻作戦を企画し、命じた上級指揮者で生き延びて年金生活を送っていたのがいるが、まことにけしからん。

全く同感

志願の方法
元山航空隊では、よく映画などで出てくる「志望者一歩前」というような方式ではなく、司令室を3日間開放し、そこへ志願者も含めて自己の志望を封書で提出する、というやり方だった。自分も前後3通提出した。

初期のフランス攻防戦で、フェアリー・バトル単軽の一隊が橋梁攻撃に出撃前に、生還はまず望めない状況であったため、隊員を整列させ指揮官が「志願者は一歩前」と言ったところ、やはり全員が一歩前に出たという。どこの国でも同じと信じている(結局全滅。ガランド少尉がビクトリア・クロス勲章を遺贈された)。

戦闘303岡嶋隊長の見識。国賊といわれても。美濃部少佐の芙蓉部隊。
岡嶋少佐のもと、戦闘303からは特攻を出さなかった。岡嶋少佐は当時32歳くらいで、ふつう少佐ならば飛行配置には就くことはないが、それにもかかわらず隊員の先頭を切って飛んでいた。ほかに正攻法で戦ったのは、芙蓉部隊(彗星艦爆、零戦)を率いた美濃部少佐。

指揮官の年齢に興味があったので質問してみた。少年たち+学生さん+血気さかんな本職+ベテランの古狐たちを率いるには、やはりこのくらいの年の功が必要かもしれない。

14)次室士官心得と海軍士官のモットー。
「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」
士官次室とは、若年初級士官用の士官室。そこの「心得」にはいくつも項目があったが、標記が特に印象深い。

不関旗を揚げるな。不関旗一旒;「我単独行動をとる」
集団の中で一人フテ腐れてチームワークを無視することはやめよ、という意味。不関旗とは、艦隊行動中の艦で機関故障発生の場合に掲げる信号旗。

15)酒と女
元山空教官時代・・・・・裏千家、座禅
溺れないこと・・・・・ホワイトには手を出すな。ブラックを買え。
普通の娘を遊び相手にするな。結婚する気なら別。ブラックとは海軍隠語で「玄人女(すなわち商売人)」のこと。その反対が「ホワイト」。その場限りの遊びはブラックだけにするのが海軍の慣わしで、素人娘をなぐさみものにしてほっぽり出すようなことがあれば、同期生からもつまはじきにされる運命。道義にもとる行為。

戦闘303隊歌というのが最近ウェブで公開されているが、そもそも作詞は谷水飛曹長。それを浜本兵曹がハーモニカで即興作曲し隊員の愛唱歌となった。曲そのものには当初譜面がなかったが、ある日頼まれて、私が鹿屋小学校教室のピアノで採譜、編曲し、その場でガリ版印刷、配布した。

16)私たちの時代は幸福であったか。
公と私のバランス。日本も目覚めるときが必ずくることを信じたい。
現代の社会では、「おおやけ」と「わたくし」が全く逆転してしまった。秩序が失われている。一定のところでバランスするべきであり、日本社会にもそれがよみがえることをつよく希求する。

17)鹿屋基地の特攻隊宿舎の黒板に残した13期特攻隊員の川柳
「ジャズ恋し。早く平和が来ればよい」「後は頼んだぞ」
いっとき左翼思想的なものがメインの戦没学生の遺稿集が刊行されたので、自分たちは別に、ありのままを表したものを遺稿集「雲流るる果てに」として刊行。当時の同僚、学生出身者の心情と使命感。

れをJ-aircraft.comでいつか解説してみよう

平家の心情。
日本歴史上で、もっとも華麗でクリーンな散り方をしたのが平家である。今次大戦での敗北に重なるので、その意味もこめ、戦後になって「平家物語」を執筆した。戦中に一時筆を折った吉川英二氏と戦後会食して聞いた話。

全般的な感想
「大言壮語する奴は強くない」と言われたが、まさにそのとおりで、口調はおだやかというか、あっさりしていてことさら悲壮感を強調なさらない。いかにも携わっていた方という感じでお話になられ、それが真の緊張感を与えている。
戦時中のただ2年足らずの経験であるが、一生懸命やって充実した日々であり、それが今日の自分のもととなっていると述べられた。
容貌も穏やかで、メガネの奥の小さな目にそれらしい眼光は感じられない。いかにも本職でなく、助っ人で国難に立ち向かってきたという雰囲気をかもし出されていて、これぞ学徒士官というところであろうか。

ともかく本当にゼロを飛ばし、実戦参加された方からお話を聞いたのははじめてである。何気ない言葉の端に「おっとっと」というような事実や哲学を述べられるのには脱帽。さすが人生の先輩である