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元203空戦闘303飛行隊 土方敏夫氏のお話

 社の同僚T氏のお誘いで、クルマのエンスーの方々の集まりで、元203空戦闘303土方敏夫氏のお話が聞けるということでお誘いをいただきました。場所は鎌倉の西口にある紅茶のお店BUNBUNです。T氏、世話人の小木曽さま、M様、大変お世話になりました。私の知り合いでは、現役パイロットの大石さんとオスプレイ日本語版の訳者K氏が参加させていただきました。私自身はひさびさの遠出なので、鎌倉散策をかね、愚息を連れてお邪魔しました。(2005年4月3日)


「鎌倉BUN BUN」行事 案内 Pt1 新シリーズ「海と空」その2
 戦争体験を聞き、語る会
 講演者:土方敏夫氏
     第十三期海軍飛行専修予備学生 零戦操縦士 元山航空隊教官 S20年4月より鹿児島・鴨池の第303飛行隊に     て沖縄特攻 直援を務める。海軍大尉。

会場:ティールームBun Bun 0467-25-2866
〒 248-0017 鎌倉市佐助1-13-4 JR鎌倉駅徒歩6分


 土方氏は2004年に「海軍予備学生 零戦空戦記 ある十三期予備学生の太平洋戦争」(光人社)という本を出版されており、おそらくはそれがベースのお話をされたのだと思います。ただし私は前日の夜にそれを知ったので読後参加は叶いませんでした。
 氏は素晴らしい紳士でして、明晰かつ的確なお話ぶりと温和でバランス感覚溢れるお人柄が滲みだしておりました。メモでいただいた戦歴は下記のようなものです。
 昭和18年10月第13期飛行予備学生として入隊後、土浦で基礎教程(地上)、12月に東京で九三式陸上中練(赤とんぼ)で教習後、昭和19年の4月朝鮮の元山空へ勤務となり九六艦戦に乗る。5ヶ月後、氏以外の13期同期生が特攻へ配属される中、教官になり九六艦戦、零戦に乗る。7か月後の昭和20年4月に九州南部の第203空戦闘303飛行隊へ配属、零戦にて沖縄特攻援護、桜花攻撃援護を行う。部下に慕われた岡嶋少佐率いる同隊にはエースとして有名な岩本徹三、谷水上飛曹らがいた。昭和20年6月以降、沖縄戦終焉後、宇佐航空隊へ異動、この間、F6Fヘルキャット撃墜、F4Uコルセアとの空戦、宇佐ではB-29迎撃などを経験。ほどなくして肺浸潤にて入院、終戦を迎える。同期の戦死はこの最期の二週間に多かったので、病のせいで九死に一生を得たとも言えるとのこと。 

以下は覚え書きです。記憶違いや理解不足の点もあるかもっしれませんので悪しからず。また順不同です。

<空中機動に関する事柄>

  • ひねり込みは訓練ではやったが、実戦では(F6Fが主に一撃離脱だったせいで)一度も使わず。
     ※これに関しては下記大石さんの論を参照ください。
  • 九六艦戦は今ならアクロ機として最高だろうが、離着陸が難しく(頭でっかちで前が零戦より見えない、徹間距離が短く地上で直ぐにグランドループになる、機体は頑丈だが固定脚お取り付け部が脆く折れやすい)大変だった。しかしそのため、同期は皆九六を飛ばして零戦に乗ったのに、自分だけ後で乗ったため、かえって零戦が簡単に思えたことが生き残るためには良かった。
  • 空中機動の練習は、剣道で言うところの一対一の打ち込みだが、実戦の空戦は喧嘩あるいは剣道でいう野打ち。後ろからばっさり斬られるので、場慣れしないと生き残れない。初陣が大事。初陣で生き残れれば長生きできる。
  • 初めてGを体感したのは九六艦戦に乗った時だが、Gは快感である。零戦のGはもっとすごかったが、とても気持ちいい。戦後トヨタの岡崎のテストコースで、かなりのバンクを試走させてもらったが、素人では最もバンクの上の方を廻った。このときも大変気持ちが良かった。また富士急ハイランドなどのアトラクションでGや逆Gのかかる乗り物も大好きである。
  • ロッテ戦法は横空でかなり早くから取り入れていたが、実戦部隊では戦争末期から。一番機がベテランで二番機が初心者なら、二番機は必死に一番機についていくが、コレス(同期)同志だったり、腕が同じレベルだと二番機も勝手な飛び方をするのでロッテにならず、すぐ単機空戦になってしまう。
  • 空戦の際、シリンダ過温を抑えるために、計器板右下の筒温計を見て180℃以下にするため、さらに右下のカウルフラップを開くハンドルw操作するくらい、離れしたら一人前と言われたが、氏自身ですらそれが可能になるには相当時間がかかり、またそれが可能なパイロットは少なかった。
  • 宇佐ではB-29迎撃をし、主に直上方攻撃(高度差600mで対進し直前で宙返り)だったが、機関砲が当たっても火を噴くまでで撃墜にはいたらなかった。なお戦闘303では高難度の直上方攻撃は2/3のパイロットが可能だった。
  • <射撃に関する事柄>

  • 零戦の欠点のひとつとして、13ミリと20ミリの混載がある。13ミリで見越し射撃しても20ミリの弾道はしょんべん弾なので当たらない。といって13ミリではF6Fはなかなか落ちず、20ミリを当てるには100m近くまで接近しなければいけなかった。米軍の12,7ミリは3,400m先から撃ってきたように思う。
  • 装備について、主翼20ミリ×2門・機首13ミリ×2門、主翼20ミリ×2門、13ミリ×2門、機首13ミリ×2門の双方があった、と仰っていたので、戦闘303には零戦五二型甲、乙、丙が混在していたと思われる。
  • また携行弾数が各150発で少ない、連射では約10秒で無くなる。残弾計も無いので!?、そんなにうまい具合に弾を残せない。
  • 全弾撃ち尽くすとそれは心細いものだが、空戦時にそのまま離脱するとすぐ敵機に追われてしまうので、しばらく弾が有る振りをして空戦を続けた後、頃合いを見計らって離脱する。しかしこれは至難の業であった。
  • <操縦士に関する事柄>

  • 戦闘機パイロットは優しいと生き残れない。生へのあくなきこだわりと強い性格が無いとだめ。
  • 岩本少佐は、巷間伝えられてきた通り、落下傘の縛隊にやはり「天下の素浪人、岩本虎徹」と確かに書いてあった。
  • 岡嶋隊の歌をエースの谷水上飛曹が作詞しメロディをつけたが、ピアノを弾かれる土方氏が頼まれて、宿舎にしていた小学校のピアノで譜面に書き起こした。
  • 落下傘の縛帯を攻撃の際、締めないものもいたが(戦陣訓で、敵地で捕虜にならないため)、自分はいつでも命が惜しいので締めていた。
  • <特攻に関する事柄>

  • なかなか微妙な話題ですが、私は渡辺洋二氏の影響が大なので、戦術としての特攻は愚の骨頂、軍令部は故に無能。ただし特攻に殉じた操縦士は逆らえないとはいえ偉いと思います。ただしそれはあの状況下で選択肢が無い上での志願であり、国、家族全てのものに殉じた訳で、個人的行為では無いと思います。
  • 土方氏の体験では、元山航空隊では「志願者は一歩前へ」式でなく、3日の間に司令官室に書状を提出する方法だったそう。氏は無駄死にしたくないので悩んだ結果、志望したそうだが、同期でたった一人却下され、九州の前線へ配属になった。
  • 戦闘303の岡嶋少佐は相当のベテランで(少佐クラスで率先垂範、機上の人となった士官は希有な例とか)、特攻の戦術的稚拙さを嫌い、部隊員を特攻には出さなかった。これは海軍全軍でも芙蓉部隊の美濃部中佐と並び、たった2部隊だけであったろう。例え国賊と呼ばれようと、戦闘機乗りたるもの、空戦で敵機に撃墜されるのなら本望だが、機銃を撃たずに死ぬのは納得できるものでは無かった。
  • 特攻はおそらく、フィリピン戦あたりで、艦攻・艦爆が敵空母に近づけなくなってきたたため、機動性に優れた戦闘機に25番爆弾(250L)を抱かせて、空母の甲板に穴を開け一時的に、飛行機の発着をストップさせるという戦術がベースなのではないかと思う。
  • <その他>

    <左ひねりこみについて> 大石さんの見解 2005年4月 3日(日)

    ※なお、詳しくは2004年に上梓された「海軍予備学生 零戦空戦記 ある十三期予備学生の太平洋戦争」をご参照ください。

    土方氏の声の一部(QUICK TIME PLAYER)