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ペガサスさんから「1945年8月13日ソウル上空での空戦に関する文献等お持ちの方、見せてください。ぜひよろしくお願いします。」という書き込みで始まった、ソウル上空での日米空戦のあれこれに関する掲示板ログです。 |
では教えてしんぜよう・・ 投稿者: 漫画さん 投稿日: 2月18日(金)23時05分0秒
ソウル空戦>ということは京城上空空戦ですね。終戦時の空戦なら、私にお任せ♪確か二十二戦隊が居たはずです。そう、初代戦隊長岩橋少佐で有名な疾風を育てた戦隊です。フィリピンでほとんど戦力を消耗しましたが、終戦時は京城飛行場に展開していました。たしかにP47に奇襲を受け、数機撃墜されております。しかしそれが沖縄からやってきたN型とは・・確かに、奴の航続距離なら、そのまま中国の基地に楽に行ける・・なるほどね。尾翼のマークはあの有名な菊水!
どーもすいませんです 投稿者: ペガサス 投稿日: 2月19日(土)00時43分35秒
実は米軍側からの記録は私も知っていて、伊江島507FGの38機のP−47Nがソウルの22戦隊と85戦隊の約50機の疾風と空戦になってます。
結果は米軍側被撃墜1機に対し日本軍側11機被撃墜(これは日本軍記録による数字)です。・・・と、すでにやまいさんの板に書かれてましたね。
ということを書いているサイトのレファレンスにオスプレイの日本陸軍エースがあったので、ひょっとして日本側から見た記録があるかな?と思ったもので。
http://www.elknet.pl/acestory/perdomo/perdomo.htm数で勝る日本軍、しかも疾風で、なぜ1対11だったのか?
パイロットの質か、機体の性能差か、他に理由があったのか。
興味深いと思いませんか。
ソウルフード(意味無し) 投稿者: がらんどう 投稿日: 2月19日(土)04時08分13秒い、いや、ソウル上空防空戦にひっかけて何か気の効いたタイトルにしたかったんですが(^_^;)
>ペガサスさん、漫画さん、えー。なんと22戦隊って敗戦間際はソウルですか。しかも疾風50機、対するは伊江島のP-47N。なんという壮絶な空戦(いや、だったのかは不明見ないですが)! どうも本土防空戦しか気にしないので全く知りませんでした。すっげー。
でもって困ったときの?かん燈社(あ、私の識字能力の問題ではなくATOKのせい)「日本陸軍戦闘機隊 付エース列伝」の22戦隊の項を少し孫引きしますと、フィリピンで壊滅した22戦隊が内地に戻って、かの神保進少佐の下、ゼロから特操、少飛の基本操縦過程終了者レベルで再編途中、内地では訓練がもはやできず、京城郊外の金浦空港へ移駐したそうです。そこでも沖縄から来るPBYに疾風が返り討ちに会う!!!ていたらく。神保少佐も単機出撃で未帰還に。そして8/13、B-29来襲の報で出撃準備をするも離陸命令が手違いで遅れ、P-47に高位からかぶられ、出撃20機のうち6機が被撃墜、だそうです。すなわち、パイロットがひよっこでかつ、指揮命令系統が機能不全のため、高性能機であろうがなかろうが、負け戦になってしまったようです。
85戦隊の項では、来襲した<P-51>との空戦で中村少佐以下5名戦死とあります。当時の保有機は10機とあり機種は特定していませんが、19年11月漢口展開時に疾風10機、鍾馗17機とありますから、敗戦直前は疾風なんでしょう。赤鼻のエース若松少佐も既に戦死してますし、20年1月に補充者を加えて錬成と防空兼務とありますので、こちらもパイロットは<アルテ(強者の意)>ばかりではなかったんでしょう。
ペガサスさんの見たWW2エースストーリーズのサイトのレファレンスにある、ヘンリー・サカイダ著「日本陸軍航空隊のエース1937-1945」(梅本<ウメコ>弘さん訳)には、11戦隊〜25戦隊の金井守告中尉の項に「金井中尉の最期の任地は朝鮮半島だった。」とたった1行あるので、この部分なんでしょうねえ?ではまた「日本陸軍戦闘機隊」の25戦隊の項に戻ると。20年5月まで上海での補充、北京移駐を経て、6月に朝鮮の水原へ移駐、22,85戦隊と共同で任に当たり、8/13は草野大尉以下12機が出動、奇襲により若干の成果をあげたとあります。装備は全機疾風。こっちは基地が水原(または一部は群山)なので、命令伝達のミスがなかったのか、22,85戦隊のような悲惨な戦いでは無かったんでしょう。
でもって、やまいさんちのBBSを(久々に、すんません)覗けば、オスプレイの米側資料が!
http://8020.teacup.com/zeke52/bbs
なーる、そうか! しかし長躯8時間なんて緒戦では日本海軍航空隊のお家芸だったのにねえ(^_^;) それとN氏MA疾風本では85戦隊は、この頃は方矢印では無かった?としてますね。
ちなみに私、オスプレイ「太平洋戦線〜」なはんとP-40しか持って無く、P-47は第8空軍だけでした(^_^;)
…ひとことだけ 投稿者: 青木樹海坊 投稿日: 2月19日(土)09時10分36秒
敵は長駆進攻(途中捕捉、少なくとも予期は可能)
味方は数的優位(早めに高度取らせて指揮よろしければ…)どうも渡辺洋二さんの本とかにもあるけど、末期の航空戦、個人、部隊で頑張ったのに戦果につながらない。
ヒヨっ子が…って、実際に業しょって死んじゃったのはそのヒヨっ子さんたちなのにね。
どうして東西問わず負け戦だと兵とかモノのせいにして言い訳するんだろ。肝心なとこ棚に上げちゃってさ。
朝、ふと思ったまでさね。
ではこちらに追加を。(^^; 投稿者: やまい 投稿日: 2月19日(土)11時48分58秒
長くなるかなと思って自前板に書いてましたのよ。<おすぷれ米軍側
で、梅本さん訳註に、当日、金浦空港は戦闘2、爆撃1の部隊で混雑、さらに手違いで離陸命令
が遅れたと。(空中退避が終わってないタイミングで上から襲われた?)それと、終戦後の金浦空港で撮影された日本機カラー写真、菊水22戦隊と片矢印85戦隊機が
どーんと写ってるやつ、あの機体たちは当日まさにその当事者だったんじゃないかな、と。
機体の状態、あまりよろしくないかも(涙)。さらにその写真だと、背後に複数の隼も
写ってますから(所属不明)さてどうかしら、というところ。
(ざっと見、四式戦は濃緑の機体は尾翼に部隊マークあり、銀機は無しみたいな?)
みなさま、どうもどうもです。 投稿者: ペガサス 投稿日: 2月19日(土)15時42分51秒
終戦の2日前、WWU最後の「大規模」空戦(小規模はその後もあり)が遠くソウルであったなんて、P−47N作るまでは知りませんでした。
日本が降伏するのも薄々分かってたんじゃないかと思うこの時期、大挙してソウルを叩く意義や如何に、などと考え出すとキリがないので止めときます。この日に5機を撃墜したパードモ中尉とP−47Nは、最初の実戦参加が1ヶ月半前、全部で10回しか出撃してません。そのあたりにも、この時点での両国の差が歴然としてます。
やまいさんの指摘にもありますが、京城には隼もいたので、50機全てが疾風かどうかも検討の余地ありでしょうね。
さらに、当日は25戦隊も戦闘に参加?
もひとつ興味深いのは、日本軍はP−51だと誤認してます。
追加情報無し、感想だけ(^_^;) 投稿者: がらんどう 投稿日: 2月20日(日)03時57分51秒
>ペガサスさん、背景を探ると色々興味深い事実が判明してきますね。これもプラモの醍醐味。模型作るだけで終わってしまっては楽しめない、大人の愉悦。
>やまいさん。ああ、栃木の杉山さんのとこの写真ですね。場所なんて意識してなかったです。お会いしたかったなあ、杉山さん。今頃はおいしいお酒を!
しかし写真を見ると、金浦空港、立派な施設ですね。コンクリの建物にコンクリ?の滑走路。エプロンだけ芝生。ドイツ並みでびっくり。
85戦隊の方矢印マーキングの件、資料・考証は常にアップデートしないと時代についていけてなくなりますね。>樹海坊さん、ヒヨっこの表現は当然、そういう補充兵を用兵した軍幹部の責任を前提として書いていますのよ。ドイツでも日本でも負け戦は、「兵は頑張ったのに、用兵がアホやねん」の論調の方が大多数だと思っています(良い意味でも悪い意味でも)。渡辺さんもそうだし、そういう書籍を読んで育ってきたんで、私、それが理の当然と思って書いちゃってましたが、父親や親戚に戦争世代がいない若い方々や、模型だけつくって終わりの方は、そんな前提が無いから、気を付けないといけないですね、反省。
おもはゆうござります 投稿者: 青木樹海坊 投稿日: 2月19日(土)20時13分23秒
>がらんどうさま
自分でも、あ、いかああああん!とか筆がすべってあとがドッキリってこと多いモンですので。気をつけます。
>金浦の隼
教導隊機の公算高いかなとも思うんですが、特攻隊編成用の補充機かなとか…
1945年8月13日ソウル上空 投稿者: 大石 投稿日: 2月21日(月)08時02分16秒
1945/8/13のソウル上空の507FGのP-47Nとキ-84との空戦ですが、私は以下のようにみます:
1)日本側の出動が遅れた
2)オスプレイNo.25「太平洋戦線のP-51マスタングとP-47サンダーボルト」P92の上から27行目の記述で「敵機はかなり開いたV字編隊で飛行していた」とありますが、このことが端的にそのパイロットの技量を示しているのではないかと思っています。すなわち、日本側列機パイロットの技量は、編隊長についてゆくのがやっとだったのでは、と思わせる記述です。
3)私の経験ですが、飛行時間が150時間程度では飛行機を飛ばすのがやっとで、有効な「見張り」はまずおぼつかないでしょう。遅れた発進で体制を整える前に上空の優位からかぶられてしまった、ということだと思います。ほかにこんな事例もあります:
1944/4/5に、海南島の254空、海口空、三亜空の3航空隊、計32機のゼロ戦が中国の少し奥地の南寧飛行場を攻撃した際、51FG26FSのP-40Kの5機に迎撃され、9機が撃墜されています。撃墜されたゼロの操縦者には、操縦練習生3期の中原常雄中尉を含む、ベテラン教官が相当数含まれていました。作戦目的は制空、地上攻撃のミックスであり、中国戦線でもまれな32機ものゼロ戦が進撃するものでしたが、中国軍の警戒網はすでにその機数を正確に報じていました。
P-40はともかく全力上昇し、ダイブにより優位から第一撃をかけたようですが、日本側の3つの航空隊の連携の悪さが第一の原因だったと思われます。米側の戦果は撃墜機の残骸カウントであり、正確です。米側は正面衝突で1機を失っただけです。
以上、「太平洋戦争航空史話上巻、秦 郁彦著、中公新書」のP199、「知られざる南寧上空の空戦」に詳述されています。とかく機体のカタログデータでのみ強さを比較しがちですが、実際にはさまざまな運用上の要因が加味されるので、上記のような結末も生まれてしまいます。つまり、航空機は「使い方」が重要であり、それでなくては、たとえばソ連空軍のP-39があれほどの撃墜マークをつけ(戦果を上げ)ていることの説明はできません。
以上、私見も含めて
豚も木登り 投稿者: ペガサス 投稿日: 2月21日(月)22時33分44秒
大石さん、お久しぶりです。
その他にも、パードモ中尉の回想に「オスカー(彼の誤認)の唯一の回避運動は旋回だった」などあり、これも日本側パイロットの技量を示しているのでないでしょうか。
でも米軍も1機撃墜されており、さすがのP−47も20ミリで撃たれれば墜ちるわけです。ところで、パードモ中尉はメキシコ系アメリカ人。Perdomoってスペイン語だとどんな発音になるんでしょう?ペルドーモ?←根拠なし。
※上記は2005年2/15-2/21の掲示板ログ抜粋です。
2005.03.06