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P-40N 10AF 80FG 89FS(骸骨部隊)

と日本陸軍飛行第50戦隊、64戦隊他の関係

私は日本陸海軍の戦記については、戦史家のフラットな筆致の戦記や空戦記でしたら読みますが、一部の方を除く本人著作にありがちな「ああ○○の〜」「鬼神も哭く奮戦」「撃ちてし止まん」といった潮書房系のトーン&マナーにアレルギーがあるたちなので、余り戦地毎の戦史が分かっておりません。戦場のメリークリスマスや、インパール作戦、チャンドラ・ボースとモーブのP-40のキットが結びつくなど想像もしていませんでした(^_^) ですから今回、ひょんな事からこのような試みをしてみたのですが、何せ初めてあり間違いもあり得ると思いますので、詳しい方は正誤が判明しましたらご一報願いたいと思います。
骸骨P-40と戦った可能性のある戦闘機は以下の3部隊ですが、航空隊は地上戦における要地防衛やインパール作戦に付随する支援のための戦術空軍の性格のようです。1942年ならば有名な加藤中隊長や穴吹軍曹も活躍していましたが、43年中盤以降での有名パイロット達、世傑口絵の64戦隊桧与平中尉の隼2型や、オスプレイやMA「陸軍航空英雄列伝」の64戦隊宮辺少佐の2、3型が戦闘を交えたかは不明です。日本側にとっての強敵はB-24やP-38、スピットファイア、モスキートでありP-40の撃墜記録は特筆されないのです。また50戦隊の河本少佐や犬飼准尉の四式戦はミンガラドン後退後なので、89FSと交戦の可能性は無いと思います。ですから機種としては、屠龍を別とすれば、隼1、2型に限定されるでしょう。
対する米軍側の戦史に全く疎いため、いささか対比としては方肺飛行ですが、そもそもビルマ方面も1942年12月まではもっぱら有名なシェンノートの率いる14AFの管轄であったため、10AFの影は薄いようです。なかでも80FGは新編で、それまで19AFでハンプ越え防衛に当たっていた51FGのパイロットを多数参入して編成されました。後、23FGがP-51に再編されるに従い、P-40の使用数は減少し、骸骨マーク機が撮影されたとされる1944年5月の後、1944年12月には205機、7月には62機になっており、完全に2線級の扱いになっていきました。戦史的にもインドから雲南を結ぶ地上ルートが奪回できれば、やっかいなハンプ越えは不要になる訳で、89FSの存在意義も薄れていったのでしょう。恐らく第一線ではない部隊であるがゆえ、戦意鼓舞のため、あのような派手なマーキングを施したのではないでしょうか?いやもっとも戦隊長のアイバン・マッケロイ大佐が単なる悪趣味の持ち主であったため、という可能性も捨て切れませんが(^_^)

年度

月日

米軍側

日本側

10AF80FG89FS

飛行第64戦隊(2代)

飛行第50戦隊

204戦隊

1943

2月

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1式戦ll型に改変(内地帰還)

1式戦ll型に改変(シンガポールにて)メイクテーラへ展開

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5月

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南部ビルマのトングー、マグエに1式戦l型で進出

昆明、インパール、チタゴン攻撃後、雨期のためシンガポール後退

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6月

カラチ集結

ラングーン郊外ミンガラドン基地に移駐

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8月16日

アッサム、ナガフリ移駐(牧説)、グンシュカラ(Gushkara)移駐(10AF公式サイト説)

雨期につき作戦実施せず

ミンガラドンへ1個中隊分遺

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10月

ハンプ越え輸送機が3機撃墜されたので、13日にミトキナ攻撃

中部ビルマのヘホ移駐(インド中国間輸送のDC-3迎撃)

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10月15日

グンシュカラ(Gushkara)移駐(再度?)

アッサムのテンスキア攻撃、P-401機撃墜

穴吹軍曹B-24を3機、P-38を2機撃墜

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10月20日

チッタゴン進攻

チッタゴン進攻

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10月下旬

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新田戦隊長以下8名ミートキーナ進出(マウントバッテン伯撃墜作戦のため、結果は失敗。ちなみにマウントバッテン伯は1979年にIRAのテロにて死亡)

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11月27日

この頃は他部隊のP-51とP-38が活躍

ラングーン防空戦、檜与平中尉P-51撃墜

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11月下旬、隼ll型でミンガラドン進出

11月28日

ラングーン防空戦、第3中隊黒江大尉P-51撃墜、桧与平中尉片足切断

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11月中はインド、ビルマ国境援護任務

12月

B-25で日本側を楽劇、エスコートはP-51とP-38

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13日テンスキア、19日昆明進攻、メイクテーラ迎撃戦

13日テンスキア攻撃

12月22日

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ヘホ移駐、昆明進攻、山口文一准尉が昆明でP-40を1機撃墜

12月25日

泰緬鉄道完成。完成までに捕虜10,562、労務者約3万人が死亡。

1944

1月

15日にB-25とP-40でピンウェで鉄道攻劇、17日にメイクテーラ攻撃、P-40は地上攻撃任務、19日にワクシャン攻撃、20日にロイロウ橋攻撃

1月7日、チャンドラ・ボース首班以下のインド仮政府、ラングーンに進出。対英戦線に加入。

2月上旬

15日にラワンガの駅をP-51,A-36と攻撃

1式戦ll型28機でトングーに赴任

 
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アキャブ方面で英軍と戦闘

3月8日

インパール作戦開始、メイクテーラ迎撃

インパール作戦開始、メイクテーラ、ヘホ、サモンカン攻撃

北ビルマ、チタゴン、レド進攻

4月26日

(23FGがP-51装備で再編)

宮辺飛行隊長が日本で初めてB-29撃破

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6月15日

メイクテーラ迎撃で隅野中尉戦死、可動7機に減退

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北ビルマ米軍飛行場攻撃

6月17日

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インパール進攻にて、P-51,スピットに永島中尉、五十嵐軍曹ら3機被撃墜

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6月上旬

サイゴンへ後退

インパール作戦失敗によりサイゴンへ後退

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8月上旬

ビルマ復帰

7月のミートキーナ攻撃を最後に64戦隊と交代しサイゴンへ後退

フィリピンへ転戦

9月15日

ミートキナ(現、ミヤンマー)に進出

1式戦lll型に改変

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10月

8日メイクテーラ迎撃戦、中村大尉戦死(lll型甲)

4式戦に改編しミンガラドンに復帰、ラングーン防衛任務

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11月

北ビルマ攻撃、タ弾によるミートキーナ爆撃

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1945

1月

(インドー雲南を結ぶレド公路再開)

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2月

メイクテーラ陥落に伴いピンマナへ移動

5月

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首都ラングーン陥落、カンボジアへ移動

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※米側は、世傑牧英雄氏の写真キャプションと、エアカムの記述による。日本側戦史は、伊沢保穂氏「日本陸軍戦闘機隊」(酣燈社)、「世界の傑作機 隼No.65」(文林堂)、部分的にヘンリー。サカイダ氏「日本陸軍航空隊のエース」(オスプレイから大日本絵画)によりますが、アッサムの89FSとの対比を主としていますので、南部のラングーンや中国の昆明への攻撃などは割愛してあります。

※インドのかなり詳細な地図を見ましたが、結局89FSの駐在したナガフリ、デインジャン等の正確な位置は不明です。どうも街ではなく単に飛行場に適した平地だったような気がします。
※2002年6月追補:大日本絵画より、オスプレイ・エース・シリーズの和訳本「太平洋戦線のP-40ウォーホークエース」が発売され、原著に訳者梅本弘氏の、日本側資料と逐一つき合わせた訳注が加えられ、一級品の資料に生まれ変わったといえる。従って、上記の資料はあまり意味を為さなくなった。